1: 神の御翼に守られて
先ほど、読んでいただきましたが、今日の個所37節では「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはあなたがたを何度も集めている」と語ります。詩編では、この言葉と同じように、神様の守りを「神の御翼の陰に身を寄せる」という言葉で語ります。今日は、最初にこの詩編の一ヶ所をお読みしたいと思います。お聞きください。詩編36:6~10です。
「主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。恵みの御業は神の山々のよう、あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」(詩編36:6-10)
主は、めん鳥が雛を集め守るように、私たちを御翼の陰に集め、隠し守って下さる。その慈しみ、その真実は、大空に満ちていて、その恵みの御業は神の山々のようであるのです。まさに、何ものをも越えて、私たちを必ず守り、慈しみと恵みを注いでくださっていると詠うのです。
雛とは、自分では何もできず、自分がどこにいるのか、どこに行くのかもわかっていない、弱く、無力なものです。その雛のように無力な私たちを、神様は何度でも、すべてを越えて、その御手と御翼によって、守ってくださるのです。その神の慈しみの最大の出来事として、イエス・キリストの十字架があるのです。神様はこのイエス・キリストの十字架を通して、親鳥が雛を集め、その翼で守るように、私たちをどのような罪からも救い出し、守ってくださるのです。
2: 律法学者、ファリサイ派の人々の偽善
しかし、この言葉のあと、37節の後半では、・・・「だが、お前たちは応じようとしなかった。 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。(37-38)と厳しい言葉が続いていきます。
人間は、神様の守り、御翼への招き、愛を受け入れない、愚かな者なのです。無力でありながら、そのことさえも分からずに、神の守りから出て、自分で生きていこうとする。それが、今日の箇所でイエス様がファリサイ派、律法学者たちに語った、「偽善」という行為なのです。イエス様は、律法学者たち、ファリサイ派の人々を激しく批判します。13節からは「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」(25)と、7回続けます。
今日は、その中の5番目、6番目、7番目の言葉が語られます。5番目と、6番目は内容としては、ほぼ同じ意味であり、一言で言うと、「あなたがたは、外側、目に見える部分をきれいにすることばかりを求めているが、内側、その心の中は汚れている」と批判しているのです。6番目では、「白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」(37)と語られます。当時は土葬ですので、死者の体はお墓の中で腐敗していきます。ユダヤ教徒にとって、死者の体は不浄なものとされていましたので、お墓に触れること自体が「汚れ」とされていました。そのため人々は、間違ってお墓に触れることのないように、お墓を白く塗り、目立つようにしていました。そのため、お墓は外から見ると美しく見えるようになった。つまり、外側は美しかったが、しかし、その内側は変わることはなく汚れているとされていたのです。ファリサイ派、律法学者の人々は、律法を正しく守り、清い者としての生活を守っていたのです。しかし、イエス様が見ていたのは、その人々の心の中でした。ファリサイ派、律法学者の人々は、形としては、神様に従っていた。しかし一番大切なこと、その心に神様の恵みを頂き、神様に愛されている、神様に生かされていることを喜んで受け取ることができていなかった。心の中は汚れていた。まさに偽善に満ちていたのです。
続けて、イエス様は7番目として「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。」(23:29)と言われました。イスラエルは、旧約聖書にあるように、過去に神様の言葉を伝えた預言者の言葉を聞かず、むしろそのような人々を殺害し、神様から離れてきたのです。律法学者たちやファリサイ派の人々は、そのような預言者の墓を建てたり、記念碑を飾ったりしていたのです。それは、「自分は、過去にいた人々とは違い、自分がその場にいれば、過去の預言者の言葉を聞く者としていた」「自分であれば間違えなかった」と考えているということです。
律法学者、ファリサイ派の人々は、その時、目の前に神の子イエス・キリストがおられることを受け入れず、批判し、殺そうとしていた。それにも関わらず、自分たちであったら、過去の人々のように神様の言葉を語る預言者を殺すことはなかっただろうとしていたのです。 このことは、今の、私たちにも語られている言葉でもあります。それこそ、私たちは今、この時イエス様に批判されている律法学者たち、ファリサイ派の人々のことを、見下してしまってはいないでしょうか。「自分だったら、目の前にイエス様がいたら、殺すことはなかっただろう。今、目の前にイエス様が来られたら、私は必ずついていく」。「私はユダのようにイエス様を裏切りこともなければ、ペトロのように『イエスなど知らない』とは言わないし、トマスのように『目で見なければ信じない』などということはない」と思い込んでいないでしょうか。
3: 偽善の恐ろしさ
偽善というものの恐ろしさは、まさにここにあるのです。自分では「自分は正しく生きている」「自分は間違っていない」と思っている。しかし実際のところは、自分が周りの人々にどのように思われているかということばかりを気にしているのです。自分は偽善者ではない。自分は正しい。自分は偉い。自分は素晴らしい人間として生きていると、思い込もうとしている。実際は不安でたまらないのにも関わらず。自分は偽善者ではないと思い思い込もうとしているのです。これこそが偽善の恐ろしさです。
イエス様はルカによる福音書で、このように言われました。「イエスはお答えになった。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。』」(ルカ5:31-32)これはマタイ、マルコにも同じような言葉がありますが、ルカによる福音書のみ、最後の「罪人を招いて悔い改めさせるためである。」の「悔い改めさせるため」という言葉があるのです。 イエス様は、「正しい人を招くのではなく、罪人を招くために来られた」。そしてそれは「罪人が悔い改め、神様に立ち返るために来られた」ということです。「罪人」「病人」とされる人々、つまり神様を求め、神様の救いを必要としていた者に、神様の愛を語られたのです。
皆さんは神様を必要としているでしょうか。自分の人生に、「神様、来てください」と求めているでしょうか。
神様が人生の中に来られることは、私たち人間にとっては、自分の欲望が満たされるということではないのです。よく間違えてしまうのは、神様の救いを得る、神様の愛を頂くということを、自分の願いが叶えられるということだと思ってしまうということです。神様を信じることで、自分の祈りは聞かれるようになる。自分が正しい者とされると勘違いをしてしまうことです。神様が、自分の人生に来られることは、私たちの人生が、自分の思い通りになるということではなく、むしろ、自分の人生を神様に明け渡すということ。つまり、神様の思いに生きること。神様に自分を委ねるということなのです。つまり、それは、自分の思いではなく、神様の導く道、イエス・キリストが歩まれた十字架の道を歩んだ道を歩きだすということなのです。律法学者、ファリサイ派の人々は、律法を守り、正しく生活をしようとしていました。しかし、その中心に神様を求めてはいなかったのです。
4: 御翼の陰に身を寄せて
皆さんは、自分の人生を神様に明け渡すことを願っているでしょうか。それは、雛が親どりのもとで守られるように、神様の御翼の陰に身を寄せる道です。今は、新型コロナウイルスが拡大し、苦しみと不安で満ちています。この不安の中、苦しみの中にあればあるほど、私たちは、神様に目を向け、神様の守りを信じることから離れてしまうのです。そして、自分の力、人間の力でどうにか生きていこうと考えてしまいます。「自分は自分の力で生きて行くことができる」と勘違いをすることから抜け出す道。つまり、偽善から抜け出す道。それは、自分はひなのように無力であることを認めることから始まるのです。
39節ではこのように言われます。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」(39)私たちは、このイエス・キリストの十字架の下、神の御翼の陰に身を寄せる者として歩みたいと思います。そして、ただ、「主の名によって来られる方、イエス・キリストに祝福があるように」と歌い、生きていきましょう。
偽善からの解放。それは、その自分の罪、自分の弱さを十字架の下に差し出すこと。そして、どのような自分でも、主はその瞳で私たちを守り、御翼の下に、私たちを隠してくださるということを信じることです。私たちはただ、神の愛という十字架を信じたいと思います。神様は必ず、私たちを受け入れ、その翼の陰に、十字架の下に受け入れてくださいます。この神様の愛の広さ、深さを信じていきましょう。(笠井元)