1: 十字架の言葉こそ救い
十字架の言葉とは、十字架の上で死なれたイエス・キリストによる救いのことです。イエス様が十字架の上で死なれたことは、この世の価値観では、ローマ帝国に対する反逆者として殺された出来事であり、力でも知恵でも何でもない、惨めな滅びの出来事です。この世の価値観では愚かなもの、無意味・無価値なものでした。
コリントの人々は、人間として競争に夢中になり、知恵を求め、富を求め生きていました。つまり、自分の力によって肯定感を得ること。自己肯定、自己実現を求めていたのです。
ユダヤ人は自分たちをローマ帝国から解放するという「しるし」、「証拠」を求めていました。ギリシア人は「知恵」を探していました。コリントの教会では様々な問題がありましたが、根本には、自分の知恵、力、富など、自分の力による傲慢な自己肯定を行おうとしていたというところにあったのです。
2: 賜物としての知恵と力
パウロは、この世における知恵、力、富というもの自体を否定しているのではないのです。これらも神様からいただいている大切な賜物なのです。私たちがこの世において、キリストに従って生きるために知恵を持つこと、誰かを助けるために力を持つことも大切なことです。
神様から頂いている賜物を、自分のものであると思ってしまうこと、自分が獲得したとするところに大きな問題が生まれるのです。「主を誇れ」(31)。つまり神様の恵みとしていただき、神様の御心、御業として、その力を使うように教えるのです。
3: 十字架で表された救い
イエス・キリストは、人間としてこの世にこられ、十字架にかかられ死なれました。人間の痛みの重さと、苦しみの辛さを、最大限に受けられ、私たちと共に歩まれることを決心されたのです。苦しみを受けられたイエス・キリストは、私たちの苦しみを分かってくださる。私たちが苦しいときに、イエス・キリストご自身が、十字架の主として共に苦しまれるということです。
4: 無力な者が選ばれた(26-29)
コリントの教会は裕福な人もいましたが、それは一握りであり、多くの人は貧しく、無学な者が多かったとされます。神様はそのような者、無力な者を選び出されたのです。
「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。」(26)私たちも自分が召されたときのことを思い起こしてみましょう。
神様は、この世において無力な者、世の無に等しい者を選ばれました。イエス・キリストの十字架は、この世において価値がないとみなされる者を価値ある者とされたことであり、「無」から「有」を造り出された出来事です。
5: 主を誇れ(29-31)
神様の召し、選びは、人間が自分の力を誇るのではなく、神様の恵みとして救いを得るため、神様の一方的な恵みとしていただくための出来事です。「キリスト・イエスに結ばれる」という言葉は「キリスト・イエスの中にある」という言葉でもあり、神様の恵みの選びによって、キリスト・イエスの中に置かれていることを意味しています。
力や富だけが求められるこの社会。自分の正義、自分の正しさを振り回す中で、分裂し、傷つけあうこの世にあって、ただ神様に召された者、生かされている者としてイエス・キリストの十字架を誇る者としていきましょう。