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2021.7.11 「希望と希望のサンドイッチ」(全文) ローマの信徒への手紙5:1-5

今日の聖書箇所は、東福岡教会の今年度の聖書箇所であるローマ5:3~5を含んでいる箇所であり、今年度の主題は「主の恵みの下に留まる」です。今年度も3か月目に入りますので、笠井牧師と話し合い今朝、私がこの個所から説教し、笠井牧師が同じ箇所を10月以降に取り上げるよう計画しています。実は201461日「神の愛といのちの勝利」という題でローマ5:1~11から説教をしています。7年前になります。覚えておられる方はいないでしょうが、今朝は角度を変えて、あるいは、1~5に絞って聖書に耳を傾けてみましょう。

 

1.この個所の文脈 信仰による義認を経験し、生きる

ローマ書5章は、4章までに語られてきたことを踏まえて、さらに、新しいテーマを展開しようとしています。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから」、これが4章までに述べられてきたことの要約です。「わたしたちは義とされた!」。「義」とはもともと裁判用語ですが、無罪判決を受けたということです。キリストが私たちのために十字架で死んで下さったゆえに、一節では、神と私たちの間にはすでに、「平和」があると言います。和解が成立しているのです。争い、葛藤がないということです。では、新しいテーマとは何でしょうか? 東福岡教会が今年教会の主題としていることとはどのようなことでしょうか?ずいぶん前、東京の信濃町教会でスイス人のマルクス・バルトという人の講演会に出席しましたが、彼がこの個所を取り上げて、こんな風に言いました。ある人が牢屋の中に囚われている。この人の裁判は終わり、無罪が確定した。あとは、この人が牢屋から出て、その無罪であることを生きることである。無罪判決を受けたからには、囚われの身から解放されて堂々と生きることができる。それにもかかわらず依然として暗い牢屋に蹲っているような生活を私たちがしているとすればそれは驚くべきことである。けれども、私たちはしばしばそのような生き方をしていないだろうかという問いかけでした。新しいテーマとは、すでに神と私たちとの間でなし遂げられた和解の事実が、神との間に「平和」があるという事実が、ここで、皆さんお一人一人の、現実的な「救いの出来事になる」という喜びのことなのです。あえて難しいキリスト教の用語で言う必要もないかも知れませんが、「義認」から「聖化」への歩み出しのことです。青山学院大学、関西学院大学、福岡女学院大学はメソジスト系ですから「聖化」ということを教えますが、私たちバプテストは余り強調しませんね。私たちを義とするために十字架で死んで下さったイエス・キリストは、今や、「聖霊の働きによって」私たちを、神を礼拝する恵みの座へと導いて下さり、そればかりか、私たちに、やがて、神の栄光と救いの完成にあずからせるという「希望」を与えて下さっているのです。

 

2.希望と希望のサンドイッチの中で

 パウロは「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」と言います。また、5節では「希望は私たちを欺くことはありません」と言います。むろん、私たちが生きている現実に、さまざまな困難がないわけではありません。むしろ、逆です。困難、苦難があるのです。「患難」(3節)とは、さまざまな圧迫を受けて人生が狭くされることです。思いがけない病気や心の不調、試験の不合格、失業など努力が報われず、夢がなかなか実現しないことなどがあるのです。子育ての大変さもあるかもしれません。仕事の苦労もあるでしょう。また、私たちの未来に不安がないわけではありません。将来何をしたらよいのか良くわからないという漠然とした不安があります。だんだん年老いていくことに、夫婦で向かい合って生きることに不安があるかも知れません。年老いた親の介護に、あるいは、目減りする年金、健康に不安を感じているかも知れません。パウロはそんな生活の苦労を知っています。確かに、私たちは様々な患難に出会うのです。しかし、それらの困難は、希望(2節)と希望(4,5節)のサンドイッチの中で起こることなのです。最近は「おにぎり」についての「おにぎらず」というのがあるようだし、サンドイッチもオープンサンドと言って、一枚のパンに沢山具が載っているものもあるようですが、ローマ書の場合は「希望」と「希望」のサンドイッチの中であらゆる出来事が起こるのです。

 希望を「誇りにしています」ということにも触れておきましょう。新共同訳聖書では、「誇りにする」と翻訳されていますが、口語訳では「希望をもって喜んでいる」と翻訳されていました。すると、11節の「わたしたちは神を誇りとしています」も口語訳では、「神を喜ぶ」となっていました。「カウコーマイ」は「誇らしげに喜ぶ」という意味なのですが、「誇る」には「誇り高ぶる」という意味もありますので、口語訳も、KJVも、文語訳も「喜ぶ」を採用しています。私の感受性では「喜ぶ」の方が味わい深いと思いますが、いずれにせよ、自分を誇るのではなく、「神の栄光にあずかる希望」(2節)を誇るのであり、「苦難をも誇る」のであり(3節)「神を誇る」(11節)のです。

 

3.苦難をも誇りとする(喜ぶ)

先ほど、私たちが経験する様々な苦難、艱難を数えあげました。先日伊藤真知子さんという人からメールがありました。彼女が命懸けでピアノの弾き語りをしているのを紹介し、冊子もテーブルの上に置いておきましたので、目にされた方もあるかも知れません。以下のように書かれていました。「その後いかがお過ごしですか?…と言うより、私の方こそ心配をおかけするようなメールを送りっぱなし、そのままになってしまい申し訳ありませんでした。24日、夫は自転車事故により頚髄損傷、手術、寝たきりの状態が続いて、覚悟を決めていました。良くて車椅子だろうということです。頚髄損傷に特化した村山医療センターに5ヶ月入院し、昨日(630日)退院してきました! とは言え、歩けるかどうか?家に帰って、自分があまりにもできないことばかりの現実を受け入れられなくて、誰とも目を合わせられない顔が怖くて、話すのもおっかないです。娘は「かなり心やられているから、目を離さないで」と言われました。でも、夜お風呂の中で、足を30分マッサージしたら、心が解けて顔みてくれました。入院して5ヶ月間、コロナで会えないし、電話とメールで励ましました。無我夢中でした。心が折れそうになり、毎日詩編一章の中の数節選び、思いを書いて夫と百合丘教会の友人達に送りました。それだけがわたしの生きる支えとなりました。私自身が、癌が胃に転移した絶望感からも、救われたい思いで、今日で133!! あと少しで完結です!! 今日から松見先生にも、あつかましいけど、送らせてください。毎朝7時に配信しています。」パウロは苦難を数え上げることをここではストップしています。そして、驚くべきことを語るのです。「それだけではなく、苦難をも誇りとします(喜んでいる)」(3節)。

 

4.忍耐 主の恵みの下に留まる

なぜ、苦難を誇らしげに喜ぶかと言いますと、苦難・患難は私たちに「忍耐」を学ばせるからであると言います。では、忍耐に注目してみましょう。忍耐という言葉を好きな人はあまりいません。わたしも苦手なことです。「忍耐」と聞くと「忍んで、忍んで」そして「耐える」、自分でじっと我慢するという重たいイメージです。同じことを繰り返されれば、つい堪忍袋の緒がプチンと切れてしまいます。むしろ、我慢などせずに、恨み辛みを「小出しに」した方が良いというのが的を得た処世術かも知れません。しかし、パウロはそんなことを言っているのではありません。「忍耐」と翻訳された「ヒュポモネー」は、「あるものの下に留まり続けること」を意味しています。私たちの場合は、神から愛され、恵みを与えられているという事実に留まり続けることです。それが忍耐です。確かに、神の恵みを疑わせるような事が起こるかも知れません。しかし、私たちにとって確かなことは、イエス・キリストによって義とされ、神との平和を得ていることなのです。この最も確かなことに留まること、これが「忍耐」です。さまざまな苦難の経験はこの確かさへと私たちを追いやり、この確かさに留まる信仰を生み出すのです。確かに、苦難は徹底的にキリストの恵みへと私たちを追い込む「忍耐」を生み出すのです。そのような意味で東福岡教会の今年度の標語を「主の恵みの下に留まる」にしているのであると思います。

 

5.練達:テスト済 経験となった信仰

 さらに、話を進めましょう。「忍耐は練達を生み出す」(4節)。「練達」という言葉も現在では余り耳にしません。口語訳では「錬」という「金偏」の漢字を使っていました。これは金属を火にさらして純度や強度を強めることを意味します。金属を精錬したり、「焼きを入れる」ことです。新共同訳は「糸偏」の「練」という字を用いています。「訓練」の「練」ですね。糸や布を冷たい水に晒して強くすることです。危機の経験が私たちを練り清め、強くするのです。ここで、「ドキマゾー」というギリシャ語が用いられているのですが、これは、「テストの結果、合格、本物と認めること」を意味します。どんなに立派な灯台でも、嵐が来て、耐えられるかどうか試されて、初めてその力が実証されます。灯台の光がどんなに強くても、倒れてしまえばそれまでです。「私たちが義とされている」ということは、さまざまな困難・苦難の中でも揺るがず、その恵みに留まることを通してはじめて、大きな恵みとして実証されるのです。KJVはこれを「experience」と翻訳しています。つまり、信仰によって義とされた喜びが私たちの「体験」が「経験」となるのです。NRSVは「character」と翻訳しています。「キャラクター」は映画の登場人物、人の気質、性質などを意味します。最近では「あの人キャラが悪いわね」「キャラが立つねえ」などと言いますが、キャラクターは人間の性格を言い表します。「品格」と翻訳するものもあるようです。ただ、「品格」という言葉は、『国家の品格』、『女性の品格』また『牧師の品格』などと言われ、極めて曖昧で、人を攻撃する時によく用いられる傾向があります。あくまでも、テスト済、実験済みの、単なる付け焼刃ではない、経験によって実証されることですから「確証」(『岩波訳』くらいが良いでしょう。

 そして、「錬達は希望を生み出す」。困難、忍耐、錬達から生まれる希望はどうして単なる「空想」「幻想」や「空虚な望み」でありましょうか。2節で語られる希望は、苦難の経験、忍耐の経験、テスト済みの本物とされた経験を通して、5節のまことの希望となるのです。このような希望はわたしたちを欺き、無駄になってしまうことはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に溢れんばかりに注がれているからです。

 

 様々な人生の危機に直面して、東福岡教会は、一歩前に進んで、忍耐、練達、希望に至る信仰を証しする群れでありたいと祈っています。(松見俊)