1: この世の知恵と神の知恵
パウロは「信仰に成熟した人たちの間では知恵を語る」と言います。原文では「信仰」という言葉はなく、口語訳、新改訳には「信仰」という言葉は入っていません。
この言葉は一つには、自分たちは知恵ある者、成熟した者であると競い合い、分裂したコリントの教会の人びとの目を覚まさせるために語ったとされます。もう一つには、「この世の知恵」に対して「神様の知恵」の偉大さを語っているのです。
この世の知恵、そして神の知恵については1:21-25において語られています。この世においては躓きであり愚かなもの「十字架」こそ「神の知恵」なのです。1:30では「神の知恵」とは「義」と「聖」と「贖い」と語られているのです。
2: 神の知恵
2:1 隠されていた
神の知恵は「隠されていた」。これは神様の愛が隠されているもので、選ばれた人にしか与えられないということではありません。むしろ神様の愛はイエス・キリストの十字架によって、すべての者に表されたのです。ただそれでも、神様の愛を必要としない人、自分の知恵を求めている人には、隠されたものとなるのです。
2:2 神秘として
神の知恵は「神秘」なものとされます。神秘とは正体不明な謎のもの、理解不能という意味ではありません。神秘というのは、神様によって解き明かされるものであるということです。この世の知恵でどれほど考えても、神の知恵に到達することはないのです。神の知恵とは、ただ神のみが所有されるのであり、神様の御業、介入によってのみ明らかにされるのです。
2:3 創造の前から定められていた
神の知恵は「創造の前から定められていた」とされます。キリストの十字架の出来事は、神様の計画によるものです。「時間」「空間」を超えて、神様が世界を創造する前に、神様の御心として計画されていたのです。(エフェソ1:4-9)
2:4 支配者たちに理解されなかった
神の知恵は、「支配者に理解されない」と語ります。コリントの教会の人々は権力争いをしていたのです。権力争いの道は、滅びゆく道、不一致、分裂への道であるのです。この世の支配者は神の知恵を必要としなかった。この人間の傲慢という罪が、キリストを十字架にかけたのです。
ここでは十字架のキリストを「栄光の主」と呼びました。この「栄光の主」という言葉は父なる神様に向けて用いられていた言葉であり、この言葉を十字架のキリストに向けて語ることで、パウロは父なる神とキリストの同質性を語るのです。
3: 人の心に思い浮かびもしなかった 神の知恵
9節の言葉は基本的にはイザヤ書64:3からの引用とされていますが、「人の心に思い浮かびもしなかったこと」という言葉はどこからの引用なのかは特定されていません。ただ、もちろんその特定も大切ですが、ここでは出典の特定よりも「目が見もせず、耳が聞きもせず、そして心に思い浮かびもしなかったことを、神様が愛する者たちに準備してくださった」、つまり、神様は人間の思いを超えて十字架という御業を準備してくださったことを学びたいと思います。神の救い、神の愛は、私たち人間の思いを超えた出来事なのです。(笠井元)