1: 憎むべき破壊者
今日の箇所の前14節では、「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:14)と言われました神様の救いと恵みの福音が全世界に宣べ伝えられ、それから世の終わりの時、終末の時が来られると語るのです。神様の救いは、イエス・キリストの十字架と復活によって起こされました。すでにイエス・キリストの十字架と復活によって、救いの御業はなされたのです。この出来事によって、神様の愛がすべての人間に注がれ、そしてすべての人間が神様と向き合うことが許されたのです。この世は救いを得たのです。
しかし、今日の箇所15節では「預言者ダニエルの言った『憎むべき破壊者』が、聖なる場所に立つ」(15)と語ります。ここでの「憎むべき破壊者」とは、この世、そしてすべての人間を、神の愛、キリストによる救いから引き離そうとするもの、その力のすべてを意味するのです。
私たちは、この神様の救いの御業を、どのように聞いているでしょうか。この世には、誘惑があふれています。思いもよらない困難。災害や病。今で言えば、新型コロナウイルスの感染拡大による、多くの人々の死があり、肉体的、精神的疲労があり、また経済的にも、大きな痛手を受けているのです。それだけではないでしょう。私たちが一日を生きる中で、小さな誘惑から、大きな誘惑まで、つまり、私たちを神様の愛から引き離そうとする力があふれているのです。
キリストの十字架によって救いの道は開かれた、救いの橋がかけられたのです。しかし、私たち人間自身が、この多くの誘惑を受けることから、その開かれた道をあるきだすことができないでいる。その橋を渡ろうとできないでいるのではないでしょうか。そのような時、この「憎むべき破壊者」とは、どこからか来るものではなく、私たちの心の内から生まれてくる、誘惑に捕らわれた弱さ、うまれているものとなってしまっているのです。
2: 逃げなさい
16節では「山に逃げなさい」と言われます。ここでは、「憎むべき破壊者」、つまり神様と人間を引き離す力が襲ってくるときに、逃げなければならないと教えているのです。私たち人間はそれほど強い者ではないのです。私たちは、いつも、誘惑に打ち勝つだけの力を持っているわけではないのです。それが人間なのです。
皆さんはいかがでしょうか。この世の誘惑、様々な困難の中、それらを打ち砕き、神様に従うことも、もちろんできるときもあるかもしれません。しかし、そのような誘惑に囚われてしまう。それこそ、ほとんどの時には、そのような弱さに苦しみ、自分の弱さや、自分の罪から、自分を受け入れることができなくなることもあるのではないでしょうか。そのような私たちに、神様は「逃げなさい」と言われるのです。主の祈りでは「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。つまり、イエス様ご自身が、私たちを神様から引き離す力、そのような、「試みにあわせないでください」と祈りなさいと教えられているのです。
ここでは「逃げなさい」と言われている。私たちには時に、「逃げる」必要があるのです。聖書ではこのように言います。【あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。】(Ⅰコリント10:13)私たちには、逃げる道が備えられているのです。神様は逃げ出すことを否定されない。逃げ出すことをも、神様の御心の内の一つの道として認めてくださり、神様ご自身がその道を備えてくださるのです。
3: 何を大切にしているのか
そしてまた、17、18節では、「家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない」「畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない」と言います。これは、私たちが何を大切にしているのかが問われているのです。先ほども言いましたが、キリストの十字架によって救いの道が開かれました。しかし人間は、ここで言えば、「物を求め」「上着を求める」ということのように、誘惑に囚われ、別の道を歩んでしまうのです。つまりキリストの救いよりも、この世の財産や宝物、そのようなものを求めてしまっている。ここで聖書は、「あなたは何を大切にしていますか」と問いかけているのです。そして、「あなたには、ほかの何でもなく、イエス・キリスト、救い主こそ、神様の愛こそがあなたには必要なのです」と教えてくださっているのです。
4: 神の助けを求めて祈る
誘惑を前に打ち勝つこともできない、逃げることもできなくなってしまう私たちです。そのような私たちに、20節では【逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。】(20)と言います。ここでは、何よりも祈ることの大切さを教えているのです。この後、イエス様はゲッセマネに行き、神様に祈ります。イエス様は十字架を前にして、恐れ、苦しみの中、神様に祈ったのでした。しかし、その時、弟子たちは眠ってしまっていたのです。そのような弟子たちに、イエス様は【誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。】(26:41)と言われたのです。しかし、それでも、弟子たちは、祈り続けることができなかったのです。
イエス様はそのような弟子たちを見捨てるのではなく、自らが弟子たちのために祈りつつ、十字架に向かわれた。そのうえで「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と言われました。私たちは主イエスに祈られている。この祈りの時、私たちは誘惑から逃れる道を見つけることができる。また祈られる者として、祈る時、そこに神様の愛を頂く者とされていくのです。イエス・キリストは、誘惑に陥らぬように、「祈りなさい」、そして「わたしの祈りを信じなさい」と言われているのです。
5: 神の御言葉に耳を傾ける
また、ここでは偽メシア、偽預言者が現れることを教えています。偽メシア、偽預言者は「大きなしるしや不思議な業を行う」と言います。私たちは何を「救い」とするのでしょうか。それこそ聖書ではイエス様も病人を癒したり、湖の上を歩いたり、5つのパンと2匹の魚から5,000人以上の人を満たしたり・・・と、多くの不思議な業、奇跡をなされたことが記されているのです。イエス様は、これらの不思議な業、奇跡をもって、苦しみの中にある者を癒し、痛みの中にある者を慰められたのです。
このイエス様の、奇跡の業の最終的な道は十字架にありました。イエス様は十字架上で、「神の子なら、そこから降りてみろ」と言われる中、死なれていったのです。イエス・キリストは、十字架の上で侮辱され、苦しまれ、死なれた。この十字架で死ぬことによって、本当の奇跡、救いの御業、神様の愛の業をなされたのでした。
イエス・キリストの十字架の御業による恵みは、神様の御言葉を聞くことから得るのです。この神様の御言葉は滅びることはないのです。35節ではこのように言います。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(24:35)偽物と本物を見分けるため、私たちが持つべきもの、それはこの神様の御言葉です。
以前読んだ本で、刀の鑑定士の育て方が書かれていましたが・・・刀の鑑定士を育てるためには、本物と偽物を見せていくのではなく、とにかく本物ばかりを見せて育てるそうです。偽物は、様々な形として出てくる。それこそ、あの手この手で詐欺が出てくるように、偽物を覚えても、あまり意味がないそうです。そのため、本物と偽物とを見分けるためには、とにかく本物を覚えることが重要ということでした。
聖書は、神の御言葉です。この世界に、偽物の救い主が現れる中、私たちがすべきこと、それは神様の御言葉に耳を傾けることなのです。
6: 十字架による救い
最後に、29節からの言葉を見ていきたいと思います。
「その苦難の日々の後、たちまち、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(29-31)
ここでは、人の子、イエス・キリストがこの世に来られる時、「地上のすべての民族は悲しむ」とあります。イエス・キリストがこの世に来られるとき、それはただ栄光、賛美だけではなく、そこには十字架として死なれた、苦難の僕としてのイエス・キリストの姿が現されるのです。この十字架の主イエスに出会うとき、私たちは、自分の弱さ、罪に出会うのです。イエス・キリストの十字架とは、私たちの罪によって起こされた出来事。私たちの罪の贖いのために、イエス・キリストは死なれたのです。
私たちは、イエス・キリストの十字架をどのように見ているでしょうか。主の十字架を見るとき、そこには、喜びだけではなく、痛みや悲しみもあるのではないでしょうか。そして、そのすべてを受け留めて、主イエス・キリストは十字架という痛みや悲しみ、苦しみ、死、そのすべてを通して、神様は私たちを愛する道を開かれたのです。十字架は、どのような私たちであっても、神様は愛する。その決断の出来事なのです。だからこそ、わたしたちも、どのような時にあっても、この神様が愛してくださっているといところにしがみついて、歩み続けましょう。
イエス・キリストが再臨の主として来られる時、私たちは十字架の主イエス・キリストに出会うのです。私たちは、イエス・キリストの苦しみ、死によって、救い出されたのです。わたしたちは、祈りと御言葉をもって、その時を待ち望みたいと思います。私たちができること、それは祈ること、そして神様がくださったみ言葉に耳を傾け続けることです。何よりも、このイエス・キリストの十字架を示す、み言葉を受け取り、祈りつつ、歩み続けたいと思います。(笠井元)