1: 憎むべき破壊者
神様の救いは、イエス・キリストの十字架と復活によって起こされました。この世は救いを得たのです。「憎むべき破壊者」(15)とは、神様の愛から、人間を引き離そうとするすべての力を意味します。この世は誘惑に溢れています。しかしまた、私たち人間自身が十字架によってかけられた救いの橋を渡ろうとできないでいるのではないでしょうか。その時「憎むべき破壊者」とは、どこからか来るものではなく、私たちの心の内から生まれているものとなるのです。
2: 逃げなさい
16節では「山に逃げなさい」と言われます。人間はそれほど強い者ではないのです。私たちは、いつも誘惑に打ち勝つだけの力を持っているわけではない。それが人間です。主の祈りでは「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。私たちには時に逃げる必要があります。そして、私たちには逃げる道が備えられているのです。
3: 何を大切にしているのか
17,18節では私たちが何を大切にしているのかが問われています。キリストの十字架によって救いの道は開かれました。神様は私たちに「あなたには他の何でもなく、キリストこそが必要なのです」と教えてくださっているのです。
4: 祈りなさい
誘惑を前に逃げることもできなくなってしまう私たちに「祈りなさい。」(20)と教えます。この後、イエス様はゲッセマネに行き神様に祈ります。イエス様は苦しみもだえ、祈り続けたのです。しかし、そのような時に、弟子たちは祈り続けることができていなかったのです。イエス様は「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と言われました。
5: 神の御言葉に耳を傾ける
偽メシア、偽預言者が現れることを教えています。私たちは何を「救い」とするのでしょうか。イエス・キリストの十字架の御業による恵みは、神様の御言葉を聞くことから得るのです。神様の御言葉は滅びることはないのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(35)偽物の救い主が現れる中、私たちがすべきこと。それは神様の御言葉に耳を傾けることです。
6: 十字架による救い
イエス・キリストがこの世に来られるとき。それはただ栄光だけではなく、十字架として死なれた、苦難の僕としてのイエス・キリストの姿が現されるのでもあります。イエス・キリストが再臨の主として来られるその時、私たちは十字架の主イエス・キリストに出会うのです。わたしたちは、祈りと御言葉をもって、その時を待ち望みましょう。(笠井元)