1: 信仰の危機
今日は、ヘブライ人への手紙から学びたいと思います。ヘブライ人への手紙はいつ頃執筆され、どこに送られた手紙なのか、未だ曖昧な部分が多いものとされています。その中でも、その内容から、この手紙を受け取ったのは、激しい迫害を受けていた教会であったと推測されています。そのため、一つの考えとして、この手紙は、ローマの教会に向けて出された手紙であり、紀元後80年代以降に執筆されたのではないかという考えが、現在の主流となってきています。この手紙では、大きな迫害を受けた「記憶」について記されており、すでに人々は大きな迫害を受けていたと考えられること、同時に、これからの迫害を「予感」させる言葉もあることから、未だその迫害という状況があまり変わっていない場所・時期であったと考えられるのです。また5章や10章には、「耳が鈍くなっている」「集会を怠っている人々がいた」と記されており、人々の中には、この世で生きることの疲れや不満が見えてきていたのでもあります。
このヘブライ人への手紙を受け取る者は、この世で生きることに疲れていた。そして信仰の危機にあったのです。信仰の危機は様々な時に起きていきます。一つには、人生の危機に伴う、信仰の危機です。それこそこの手紙を受け取る人々が、迫害を受け、疲れ、苦しんでいたように、人生において、疲れ、苦しんでいる時、「なぜこんなことが起こるのだろう」と思うことから、神様に対する不信感を持つようになります。突然の苦しみ、思いもよらない病気や事故が降りかかってきた。苦しみ、悲しみ、疲れを覚える中で、希望を失い、信仰の危機へと陥っていくのです。
また、隣人との関係が崩れていくことも、大きな信仰の危機となります。苦しみを誰にも相談することができない、叫びを聞いてくれない。そのように人間関係が壊れていくことも、大きな信仰の危機となります。以前の私がいた教会では、親友に裏切られたことから、傷つき、「神様も自分を見捨てるのではないか」と思うようになった方もおられました。隣の人に裏切られ、自分を大切に思ってくれる人は誰もいないと感じる。それこそ、本当ならば、そこから自分も含めて人間は罪人であり、裏切るものだということを確認して、それでも神様は裏切らない、神様も共にいてくださらないと思うようになってほしいと思うのですが・・・頭ではわかっていても、それほど人間の心は強くもなければ、素直でもないということです。
また、反対に、人生において、あまりにも何もない時にも、信仰の危機に直面することがあります。私に連絡をされる方に、自分には何もすることがない、それなりの収入もあり、それなりに生活も出来ている。ただ、自分が生きている意味が分からない。「私は何をすればよいのでしょう」と問われる方がいます。「なんて贅沢なんだ」と思うかもしれませんが・・・それこそ、スーパースターのような人や、大富豪になった人でも、いつの間にか自分が何をしてよいのかわからなくなってしまい、生きている意味を失い、最後は自ら命を絶っていったという人も多くおられるのです。
旧約聖書の箴言ではこのようにも教えています。
【二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉を、わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません。】(箴言30:7-9)
「貧しくも、金持ちにもしないでください」。傲慢になり神様を必要としない者とならないように、または苦しみのあまり、神様の愛を認めない者、神様を受け入れない者とならないように、してくださいという祈りなのです。
私たちが生きている限り、どのような時にあっても、そこには信仰の危機が待ち構えているのです。この信仰の危機の一番の理由は・・・永遠に変わることのない、神様の愛を忘れてしまうことにあります。そして自分の信仰が、自分の信念や意志、情熱によるものだと思ってしまうことです。 信仰とは神様の恵みを信じることであり、私たちがどれほど落ち込んだとしても、どれほど情熱的でも、逆に、情熱を失ったとしても、神様の愛は変わらないということを信じることなのです
2: わたしたちは見ていない
今日の8節ではこのように語ります。
【「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。】(2:8)
キリストがすべてのものを従わせられた。この方に従わないものはもはや何も残っていないのです。私たちは、キリストの支配、神様の愛を見ることができているでしょうか。この世はキリストが支配されている。しかし、私たちにはそのキリストの支配、神の様愛を見ることができない者となっているのではないでしょうか。この時、ヘブライ人への手紙を受け取った人々は、大きな迫害を受けたのです。そして、その迫害がいつまで続くのか、わからないような状態にあったとされます。つまり、神様にしがみついてなんとか迫害を乗り越えた。しかし、何度も何度もその苦しみが続くなかで、疲れ果て、苦しみ、イエス・キリストによる神様の愛の支配を見ることができなくなっていたのです。終わりが見えない迫害に、苦しみ、絶望へと陥っていたのです。
私たちは、今、どのような状況にあるでしょうか。病の中にある方、命の危機に直面されている方、これまでの人生の選択について悩む方、高齢になり体の衰えを感じる方、または、人間関係において怒りや疑問、不満を持たれている方、新しい道を歩き出していく中で、神様が分からなくなっている方、一人ひとり違うと思いますが、それぞれに、それぞれの困難に出会っているのではないでしょうか。全く悩みも何もないという方はほとんどいないと思います。それこそ、幼稚園児でさえも、親との関係、先生との関係、友達との関係、自分にできること、できないことがあることなどから、心を痛めていることは、何度もあるのです。そのような中にあって、私たちはキリストの支配、神の愛を見ることができるでしょうか。「神が私たちを愛して、共にいてくださる」ことを理解はしていても、現実の苦しみの中で、そのことを理解できない、受け入れられない、もっと大きな不安に飲み込まれてしまう。そのような時もあるのではないでしょうか。
3: キリストに目を向ける
「すべてのものがこの方に従っている様子を見ていない」・・・しかし、続けて、9節では【「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。】と語ります。8節での見るという言葉は、目を開けていれば自然と見えてくることを意味した言葉となります。そして、9節の「見る」という言葉は、「注目する」「識別する」そして「魂の目をもって見る」という意味の言葉となるのです。
私たちが、ただ、何も気にせず見えてくるのは、神様に支配されていないこの世。罪と悪のはびこるこの世界です。しかし、神の御子キリストがこの地上に来られ、低い者とされ、十字架という死の苦しみを受けられたという出来事を通して、よくよく注意して見る時、それこそ、魂に語り掛けてくださる神様の愛のみ言葉を通して、・・・自分自身を、この世を見つめるときに、私たちは、そこに神様の救いを見ることができるのではないでしょうか。イエス・キリストは、この世に来られ、私たちが、神様の愛、神様の恵みを受け取るために、十字架の上で死んで下さったのです。
神様は、人間を心に留められたのです。それは、本来、天使たちよりもはるかに優れた存在とされていた御子イエス・キリストが、天使たちよりも低い存在となられたという出来事、このイエス・キリストの行為によって、神様は人間を心に留められたのです。そしてこの出来事こそ、イエス・キリストの栄光なのです。
イエス・キリストは、すべての人の救いのために、この世に来られ、死なれました。
フィリピ書ではこのように教えています。
【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。】(フィリピ2:6-11)
イエス・キリストは低い者となられたのです。すべての人の救いのために、死なれた。この十字架の出来事を通して、イエス・キリストは救いの創始者となられたのです。私たちが、普段通りに生活をしているときも、人生の危機にある時も、どのような時にあっても、このイエス・キリストの十字架による救いに目を向けたいと思います。私たちは、このイエス・キリストの十字架を見るときに、永遠に変わることのない、神様の愛を見るのです。
4: 私たちの兄弟イエス・キリスト
11-12節から聖書は、【イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、「わたしは、あなたの名を、わたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」】(11-12)と語ります。救いの御子イエス・キリストは、私たちを、恥としないで「兄弟」と呼んでくださるのです。私たちが何をしたとしても、どのような人間であったとしてもです。神の御子イエス・キリストが、私たちのことを「兄弟」と呼んでくださるのです。今、私たちは、キリストが自分自身の兄弟となり、そのことを恥とはせず、むしろ喜びとしてくださっているという恵みをいただきましょう。兄弟と呼ぶこと。それはイエス・キリストが、私たちと共に生きて、繋がってくださっているということであり、同時にイエス・キリストを通して、神様の愛につなげられることを教えているのです。私たちは、自分がどうであるか、他者がどうであるか、そのようなことから自分の価値を見出そうとして、イエス・キリストから目をそらしてしまいます。今一度、ただ、素直に、イエス・キリストの十字架に目を向け、全てを支配される神の子イエス・キリストが、私たちのところに来てくださっていること、共に苦しみ、痛んでくださっているということを受け取りたいと思います。
「自分にはもう神様がわからない」というとき、それでも「神様はあなたを知っておられる」のです。「自分はもはや愛することなどはできない」というとき、それでも「神様は私たちを愛してくださっていること」を覚えましょう。何があったとしても、このイエス・キリストの十字架による、神様の愛の支配は変わることがないのです。神様の愛。それは永遠に変わることのない、私たちに与えられている最大の希望なのです。イエス・キリストが、私たちを「兄弟」と呼んでくださるのです。だからこそ、私たちは今、隣にいる、兄弟姉妹の存在を喜びましょう。そしてイエス・キリストにつなげられ、共に祈りましょう。
聖書は言います。 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33) (笠井元)