1: 信仰の危機
ヘブライ人への手紙を受け取ったのは激しい迫害を受けていた教会であったと考えられます。この手紙を受け取ったのは、生きることに疲れていた者、信仰の危機にあった者なのです。信仰の危機は様々な時に起こります。迫害を受けて苦しんでいたように、突然の苦しみ、思いもよらない病気や事故が降りかかってきたときに信仰の危機に陥るのです。また隣人との関係が壊れていくことも大きな危機となります。また、反対にあまりにも何もない時にも信仰の危機に直面することもあります。信仰の危機は、神様の愛を忘れてしまうことです。
2: キリストの支配を見ているのか
キリストがすべてのものを従わせられた。この方に従わないものはもはや何も残っていないのです。しかし、私たちはキリストの支配、神様の愛を見ることができているでしょうか。現実の苦しみの中で、神様の愛を受け入れられない時もあるのではないでしょうか。
3: キリストに目を向ける
8節の「見る」という言葉は、目を開けていれば自然と見えてくることを意味した言葉です。9節の「見る」という言葉は「魂の目をもって見る」という意味の言葉となります。ただ何も気にせず見えてくるのは、神様に支配されていない罪と悪のはびこるこの世界です。しかし、イエス・キリストの十字架を通してよくよく注意して見る時、神の栄光を見るのです。
私たちが、普段通りに生活をしているときも、人生の危機にある時も、信仰から離れないためには、イエス・キリストに目を向ける必要があるのです。
4: 私たちの兄弟イエス・キリスト
「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」(11)救いの御子イエス・キリストは、私たちを「兄弟」と呼んでくださるのです。私たちが何をしたとしても、どのような人間であったとしてもです。それはイエス・キリストが、私たちと共に生きて、繋がってくださっているということであり、イエス・キリストを通して、神様の愛につなげられていることです。
「神様がわからない」とき「神様は知っておられる」こと、「愛することができない」とき、「神様は愛してくださっていること」を覚えましょう。イエス・キリストの十字架による愛の支配は変わることがないのです。(笠井元)