1: 神の深み
神の知恵を明らかにされるものは神の霊です。コリントの教会では、自分たちの知恵を競い合い、分裂していました。神の霊は一切のことを、その神の深みさえも究めるのです。(10)この深みとは計り知れない人間の罪の深さ、その罪を贖われた神様の愛の深さとなります。
わたしたちには、自分を受け入れられない時がある。同じように、他者を受け入れられないときもある。神様は、どのような状態であっても、そのままの姿で私たちを愛してくださっているのです。神様の深みは神が人間を無条件で愛されたことを教えます。神様の愛は私たちの思いを超えた深い愛なのです。神様はその恵みの深さを知るために、人間に霊を送ってくださいました。
2: 霊に教えられた言葉
2:1 自然の人
14節「自然な人」はフランシスコ会訳聖書では「この世の命だけに生きる人」と訳し、「生まれながらの人」という意味を持ちます。言い方を変えると自分が「ありのまま」であるときには「神の霊に属する事柄」を受け入れないのです。
私たちは神様の深い愛によって、人間を「ありのまま」で愛されています。しかし、「自然な人」の私たちは神の霊を受け入れないのです。
「受け入れない」と言う言葉は、「積極的に歓迎しない」という意味を持ちます。生まれながらの人間は、積極的には神の霊に属する事柄、つまり、十字架のキリストによる救いを歓迎しないのです。
2:2 霊の人
「霊の人」(15)は「自然の人」の対照として語られています。「霊の人」は神様の霊を歓迎して受けいれる人のことです。私たちはキリストの十字架による神の贖いを知る者とされる時、自分の弱さと向き合うことができるのでしょう。この聖霊の働き、霊の言葉によって、人間は心に神様の恵みを頂き、新しい心「神の愛」が創造されていくのです。
そしてこの神の霊が、人間を導き、「教会」を導くのです。聖霊が降った時、そこに教会が生まれたのです。
2:3 霊に教えられた言葉
福音を宣べ伝える言葉は聖霊の導きによるのです。神様の霊によっていただいた人間全体の救いを受け取った、その感動、喜びを伝えるのです。イエス・キリストによる救い、自分は愛されているという喜びを伝えるのです。
3: キリストの思いを抱いて
「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」(16)という言葉はイザヤ40:13の引用とされ、イザヤでは「主の思い」は「主の霊」(ルーアッハ)とされています。イザヤでは「主の霊を測りうる者があろうか」と語ります。パウロは、「わたしたちはキリストの思いを抱いている」(16)と語ります。キリストの思い、キリストの霊を抱くこと。それは「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」である「キリストの十字架」を受け取ることです。私たちは、主の霊を頂き、キリストの十字架に従い歩みたいと思います。(笠井元)