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2021.8.8 「多く赦された者は多く愛す」(全文) ルカによる福音書7:36-50

愛すること(love)、人を暖かく受け入れること、しかも他者を自立させるような愛はどこから出て来るのでしょうか?この説教の準備の過程で岡田尊司(たかし)の『愛着障害』を読み直し、そして少し古いですが、『愛着と自立』という学者・医者たちの講演集を読みました。この場合「愛着」(attachment)とは身近な保護者にかじりついて、抱っこしてもらい、守られた経験のことです。その経験が子どもたちをかえって自立させるそうです。むろん、単なるべったりは人を駄目にしてしまいます。そのような愛情(affection)、好き嫌い(like)を含んだ、真の愛はいったい、どこから出て来るのでしょうか?

 

1.客を招く

 イエス様が生きておられた時代にはホテルやレストランなどはありませんでした。人との交流は、専ら家庭に招き、招かれ、一緒に食事をすることによってなされていました。他者を家庭に招くことはその人の生活の仕方や価値観がバレてしまうし、煩わしいので、最近では外で食事に招いたり、招かれたりすることが多くなっているのでしょう。「あるファリサイ派の人」が、イエスと一緒に食事をして欲しいと願ったとあります。ファリサイ人がイエスを食事に招いた物語は何カ所かに登場しますので(参照11:3714:1)、ありえないことではなかったのでしょう。しかし、「一緒に」に食事をするのは、ファリサイ人はどちらかと言うと苦手であったと思います。「ファリサイ」とは、あの人、あの不信仰な人たちとは自分とは違う、彼等とは「分離していること」(ペルーシーム)を意味していたからです。「一緒」が好きではなかったのがファリサイ人でした。確かに、日本社会でもお遍路さんを接待するという習慣が残っているように、旅をする修行者を接待することは良い業でした。シモンはその功徳を頼りにして生きていたのでしょう。他方、招かれたイエス様は、しょっちゅうファリサイ派の律法主義的な生き方を批判していましたから、招きを断らずによくシモンの家に行ったものだ、さすが懐が深いなあとも思います。「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をして欲しいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた」。イエスはすでにサンダルを脱いで、もう料理の前に横になっていました。

 

2.当時の接待の仕方と一人の女性の登場

 そこに一人の女性が入ってきました。いろいろな人が家の中に入り込むことはそれほど珍しいことではなかったようです。注目すべきことは、ファリサイ人の名はシモンと呼ばれていますが、女性の名は記されていないことです。むしろ、「罪深い女」(hamartōlos, a sinner)と言われています。これは、伝統的には「娼婦であった」と解釈されてきました。この文章の翻訳は少し難しい点があります。「この町に一人の罪深い女がいた」。過去形です。彼女の素性はこの町の市民に知られていたということなのですが、この過去形を、彼女は、かつては娼婦であったが今はそうではないという意味に理解できます。あるいは、「この町にかつて住んでいた女で、罪人である」と理解することも可能です。それはともかくとして、彼女がしたことが、シモンがしなかったことを顕わにしたのです。シモンとこの女性の対比、そして、さらに、二人の宗教指導者、この女から遠ざかり、遠ざけることが正しいと考えているシモンと、この女性と関わり、赦しを宣言するイエスという二人の宗教指導者の間の違いが明らかになりました。

 彼女がしたことは、値段の張る香油の入った石膏の壺を持って来て、横になっているイエスの背後からイエスに近づくことでした。彼女は、涙でイエスの足を濡らし、自分の髪の毛を解いて足を拭い、イエスの足に接吻して香油を塗ったことでした。彼女の過剰とも思えるこの接待の仕方が、シモンがしなかったことを明らかにしたのです。44節に、それが描かれています。イスラエルは雨の少ない乾燥地帯であり、風呂に入る習慣はなく、埃りっほい土地柄です。ですから、人を食事に招いた場合のしきたりとして、まず、召使が足を洗う水を用意して、足を洗ってくれます。そして、タオルで拭いてくれます。それが終わると、主人が出て来て客人を迎え、手あるいは頬に挨拶の接吻をします。そして更に、客人の髪の毛にオリブ油を塗るしきたりでした。実は、36節の表現、「イエスはその家に入って、サンダルを脱いで、もう料理の前に横になってしまったのでした」という表現の中に、シモンに悪気があったとは思えませんが、当時の客人の接待でやるべきことをやっていない、その前にやることあるでしょう?!という含みが隠されていたわけです。それをこの女性の行為が明らかにしました。

 

3.ファリサイ派とこの女性との対比

シモンは通常の接待をしませんでした!しかし、この女は涙でイエスの足を濡らし、タオルの替わりに髪の毛で拭い、足に接吻をします。宗教指導者への尊敬の念から弟子が先生の足に接吻する習慣はあったそうですが、足はこの世に接して汚れる場所です。この女性は、頭(あたま)ではなく、足に、安いオリブ油ではなく、高価の香油を塗り、接吻します。イエスの働きはこの地上を私たちと共に歩んでくださること、まさに、主イエスの足こそ、最も貴いものと思ったのでしょう。シモンはこのような女性の行為を見て、自分がイエスに対してしなかったことを示されるのではなく、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思ったというのです。彼は、イエスに向かって40節では「先生」と呼びかけており、また、「もし預言者なら」とも思っていたとあるので、多少の尊敬の気持ちもあったことでしょう。しかし、彼が感じたことは、この女性がしたことを通して自分がしなかったことに気が付くことではなく、この女性のような罪人ではなく、律法を守り、正しく生きているという自負、誇り、そして、イエスへの疑いであったのです。この女性は自らの罪を自覚し、神あるいはイエスに多くの赦しを感じ取っていましたが、このファリサイ人は自分の義しさを主張し、神あるいはイエスに何の負債も重荷も感じていないのです。

 

4.借金を帳消しにされた人の譬え

 この女性とこのファリサイ人シモンの違いを明らかにするため、シモンの不平がどこから由来しているのかを悟らせるために、イエスは譬えを語ります。ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は500デナリ、もう一人は50デナリでしたが、二人の借金が帳消しにされた。「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」という譬えというか問いかけです。借金を帳消しにされてどちらが感謝したかとか、どちらが喜んだかというなら分かりますが、どちらが「愛するだろうか?」という問いに多少、戸惑いを覚えます。それでもシモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えています。スイスの神学者であるK. バルトは刑務所で受刑者に説教することを好み、使命としていました。教会で説教を聞いている人よりも、彼等彼女らは自らの罪を知っているから、罪の赦しという説教がストレートに受刑者たちの心に届くというのです。神との関係である罪の問題と人間同士の負債・借金の関係とは違うのではないかとも思いますが、ともかく、説教の糸口という意味でしょうか、バルトは刑務所の受刑者たちの方が説教しやすいし、良く聴かれているというのです。

 

5.多く赦された者は多く愛す

 多少問題が残るものの今日のメッセージの中心部分に移りましょう。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(47節)。私は高校3年生の頃から聖書を読み始め、56年になりますが、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」という言葉がずっと気になってきました。シモンとこの女性の違いはどのからくるのだろうか?主イエスへの愛と隣人たちへの愛がどこから生まれるのか?この女性はイエスに感謝し、多くの罪を赦されたと感じています。そこから、過剰とも思える感謝、愛の行為が出て来きます。他方、ファリサイ人はイエスと対等であり、何のも借りも痛みも感じていません。むしろ、放浪の伝道者イエスを食事に招き、自分の方が格上であると考えていたのかも知れません。

信仰に篤く、他者を愛する人になりたいと思うなら、自分が如何に多くの罪を神から赦されているか、その負債の大きさを自覚することが重要だというのです。むろん、ここでも、負債感からくる愛は、本当の愛なのかという疑問は残ります。「感謝する」「奉仕すること」「仕えること」であるなら筋は通りますが…。しかし、42節、47節では、agapēseiという重要な言葉が用いられており、神に根差した真の愛という言葉です。どこかしっくりいかないことは残るのですが、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」という言葉は、私たちの心を差す言葉ではないでしょうか!「神の前には人はただ債務者がいるだけである」。(レングシュトルフ)と言います。私たちの神への愛、隣人への愛は、自分が如何に神から多くの借金を帳消しにされているか、いかに赦されているか、いかに愛されているかの自覚からくるというのです。

 むろん、人に依存することは、結局、どこか精神的負担にもなり、自立心、自尊心を失わせることになるでしょう。しかし、すべて自己責任で、人に全く依存しないという姿勢も「歪められた自尊心」でしょう。人は他者の助けを必要とし、他者もわれわれの助けを必要としているのです。必要な時に抱っこされ、抱きしめられた、しがみつく人がいた経験があればあるほど、人は親から離れ、自由に自立して生きることができるのです。過去の生育史に、「愛着」することにどこか不満を持っているなら、わたしたちは、主イエスがだっこして下さり、抱きしめてくださること、この女性の愛をしっかりとつなぎとめて下さっていることを覚えましょう。86日は広島被爆記念日、9日は長崎の被爆記念日です。平和を求めて祈る日々です。戦争で被害を受けた同胞の嘆き、国境を越えて、傷つけてしまったアジア・太平洋地域に住む人々の痛み、苦しみ、嘆きがどこかで互いに共有されるとしたら、互いに赦され、生かされているという意識を共有できれば、武力による対立ではなく、愛し合う道が開かれるのではないでしょうか? 

 

6.安心して行きなさい!

 

 この物語の最後に、主イエスは言われます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)。この女性はこの物語の後、どこに行くのでしょうか?教会の交わりは、この女性を受け留め、居場所を提供できるでしょうか?充分愛情を受けなかった、受けそこなった、愛着が不十分で、問題がある、いったいそれはどこから来たのか、その原因・犯人捜しではなく、イエス様の赦しの懐に逃れ、互いに受け入れ合う信仰の交わりである教会へ「安心して」向かうことができるように、そのような教会となれるように祈りましょう。(松見俊)