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2021.8.1 「希望をもって待ち続ける」(全文) マタイによる福音書24:32-44

「希望をもって待ち続ける」

2021.7.25 マタイによる福音書24:32-44

1:  いちじくの木から学ぶ

今日の箇所の、32節から35節までを、新共同訳聖書では「いちじくの木の教え」としています。いちじくは、当時のユダヤの生活では、最も身近な果物の一つでした。最近の研究では、1万年以上前にも、ユダヤの地で栽培されていた可能性があると考えられています。いちじくは、日本には、ペルシャから中国、中国から日本へときたと考えられています。乾燥して長持ちすること、薬としても使うことがでること、また甘味としても使えることから、とても重宝されるようになったのです。

 このいちじくを漢字で書きますと「無花果」・・・「ない」という字「無」に、普通の難しくないほうの「花」という字、そして果実の「果」と書いて、「無花果」と書いて「いちじく」と読みます。いちじくは、枝が生え、葉が伸びて、次には花を通り越して「実」がなるように見えるようです。そのため、「花のない果実」として「無」「花」「果」と書くようです。

イエス様は言われました。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。24:33 それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(マタイ24:32-33

ユダヤ・パレスチナ地方は日本のように、四季がはっきりしていないで、冬の後、春が来て、夏になるというより、冬の後に夏が来ると感じていたようです。そのため、ここで「夏が近づいた」とは、冬が明け、暖かい日差しの時、新しい命の誕生の時が来ることを教えているのです。 

24章では、3節からは「終末の徴」とありますが、そこでは、戦争、地震、飢饉、偽証、迫害などが起こると語ります。これらはいちじくの枝が柔らかくなり、葉が伸びて、「実」がなる前のこと、冬の出来事です。冬の時に、「人の子が戸口に近づいていること」、暖かい日の差し込む時がくることを「悟りなさい」と言われているのです。

 

2:  わたしの言葉は滅びない

34節からは「滅びる」という言葉が3度も出てきます。この「滅び」という言葉は、意味としては「過ぎゆく」「過ぎ去る」という意味を持つ言葉です。イエス様は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(35)と言われたのです。「天地は過ぎゆくが、わたしの言葉は決して過ぎ去ることはない。神の御言葉は決して過ぎゆかない」と教えているのです。

この言葉を当時の人々はどのような思いで受け取ったのでしょうか。マタイによる福音書が記された時代、キリスト教はローマ帝国による迫害の中にありました。そのような、まさに「冬の時」に、「天地は滅び、過ぎゆくが、神の御言葉は過ぎゆかない」という希望の言葉、励ましのメッセージを聞いたのです。

今、私たちは新型コロナウイルスが世界中に蔓延する中、まさに「冬」の時を過ごしているということができるのではないでしょうか。すでに、1年以上も収束することなく続く中、日本だけでも、80万人ほどの人が感染し、1万5千人ほどの人が亡くなられているのです。また世界では、2億人以上の人が感染し、4百万人以上の人が、この新型コロナウイルスによる病によって亡くなられているのです。今、数字をあげ、ニュースでも、毎日、何人が感染し、何人が死亡されたと放送されますが・・・私としては、この数字の中にある、一人ひとりの命の尊さ、その後ろにある家族や関係者の思いを大切にすることを忘れてはいけないと思うのです。たとえそれが一人であったとしても、この新型コロナウイルスは、私たちの命を奪う、そして、あなたの隣にいる一人の人間の命を奪い取るのです。そして、その家族や多くの人々を悲しみに陥らせるのです。私たちは、今、このような暗闇の中、寒い冬の時を歩んでいる。しかし、だからこそ、今日の御言葉は、「冬」がそのまま続くことはなく、必ず「夏」が来ることを教える、励ましのメッセージなのです。

「戦争、地震、飢饉、偽証、迫害などが起こるとき」、つまり不安でいっぱいの時、そのときに、「人の子が戸口に近づいている」「冬は夏に変わろうとしている」という希望を持つことを教えられているのです。

 

私たちが絶望に堕ちるとき、それはこの新型コロナウイルスによるものだけではありません。わたしたちの人生は、誰の命が、あと何年なのか、何か月なのかは誰にもわかりません。しかし、確かなことは・・・すべての者が、いずれ、神様の御許に召されていくということです。今、私たちは、誰もが「過ぎゆく」世界において生きているのです。そのような私たちに、キリストは「わたしの言葉」「神の御言葉」を受け取る者は、ただ過ぎゆくものではなく、神様の愛に生き続ける者となる。「神の御言葉」は過ぎゆくものではない。この神の御言葉を受け取る者は「滅び」「消えいく」「過ぎゆく」者ではないと教えられるのです。

イザヤ書ではこのように語ります。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ40:8)この御言葉が語られた時代は、第二イザヤ、バビロンの捕囚時代であり、イスラエルの民が異国の地で囚われの者となっていた時、「冬の時」でありました。希望の見えない時、絶望の時です。それでも、聖書は神様の御言葉に救いを見ることを教えるのです。「神の言葉は永遠に生きる」ということを示すのです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)イエス様は、どれほど世界が過ぎゆくなかにあっても、神様の御言葉を受ける者は、決してただ過ぎゆく命を歩むのではない。神様の御言葉を受ける者は、神様に与えられた命を生き続けると示すのです。

 

3:   目を覚ましていなさい

 イエス様は42節において「目を覚ましていなさい」(マタイ24;42)と言われました。それは、ここでは「自分の主が帰ってくること」、また「人の子が来るとき」を待ち、目を覚ましていなさいと教えられている。 それは、「終末の時を待ち続けなさい」、つまり「神様の愛の完成を、希望をもって待ち続けなさい」と教えられているのです。今のこの苦しみの時はいずれ過ぎ去り、必ず神様の愛が注がれ続ける時がくるのです。イエス様は、私たちに「この希望に目を向け、目を覚まし続けなさい」と言われているのです。私たちは、主の愛の完成を待ち続けたいと思います。

 

4:  変わることのない神の愛

イエス様は、神様の御言葉は決して滅びない。だから、その希望に目を向け、目を覚まして待ち続けなさいと教えます。この時、この言葉を語られたイエス様は、これから十字架に向かうところにありました。イエス様は滅びに向かっていたのです。しかし、その中で、イエス・キリストは「神様の御言葉は決して滅びない」と語ったのです。 キリストの十字架、そして復活は、神様が私たちをどこまでも愛されているということを示された出来事でした。主はわたしたちを愛してくださっているのです。

 聖書はこのように言います。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅱコリント13:13)

過ぎゆく世界にあって、いつまでも残るもの、それは「信仰」と「希望」と「愛」です。その中でももっとも大いなるもの、中心にあるのは「愛」なのです。神様が私たちを愛している。この現実はいつまでも変わることはないのです。この神様の御言葉、神様の愛が私たちを過ぎゆく者から、永遠にある者へと変えるのです。

 わたしたちは、神様の愛の言葉によって生きていきたいと思います。あたたかい神様の眼差しのうちに生かされていきたいと思います。病の時、苦しみの時、痛みの時、不安の時、私たちは、いずれ過ぎ去るものを中心に生きるのでしょうか。それとも、そのような苦しみの中にあって、神様の愛、「決して滅びない」神様の御言葉に立つのでしょうか。私たちは神様の愛、イエス・キリストが共にいてくださるという希望に立っていきたいと思います。そしてその希望が、私たちを守り続けてくださると信じたいと思います。それこそが信仰です。 

私たちがキリスト者として生きる。それはこの神様の愛に立って生きる事。神様の御言葉を受け取り生きることでしょう。神様は私たちを愛してくださいました。私たちの隣に立ってくださったのです。私たちが生きる道は、この愛に支えられた人生なのです。神様の愛に導かれた人生となるのです。神様の御言葉は決して滅びることがありません。わたしたちはこの神様の御言葉、愛を土台として歩みだしたいと思います。(笠井元)