愛すること(love)、人を暖かく受け入れること、しかも他者を自立させるような愛はどこから出て来るのでしょうか?「愛着」(attachment)とは身近な保護者にかじりついて、抱っこしてもらい、守られた経験のことです。その経験が子どもたちをかえって自立させるそうです。むろん、単なるべったりは人を駄目にしてしまいます。そのような愛情(affection)や好き嫌い(like)を含んだ、真の愛はどこから来るのでしょうか?
1.客を招く
イエス様が生きておられた時代にはホテルやレストランなどはありませんでした。人との交流は、専ら家庭に招き、招かれ、一緒に食事をすることによってなされていました。一人のファリサイ人がイエスを食事に招きます。
2.当時の接待の仕方と一人の女性の登場
そこに一人の女性が入ってきます。彼女がしたことが、ファリサイ人シモンがしなかったことを顕わにしま。さらに、この女から遠ざかり、遠ざけることが正しいと考えているシモンと、この女性と関わり、赦しを宣言するイエスという二人の宗教指導者の間の違いが明らかになります。彼女がしたことは、香油の入った石膏の壺を持って来て、横になっているイエスの背後からイエスに近づくことでした。彼女は、涙でイエスの足を濡らし、自分の髪の毛を解いて足を拭い、イエスの足に接吻して香油を塗りました。当時は、まず、召使が足を洗う水を用意して、足を洗い、タオルで拭いてくれます。次に、主人が出て来て客人を迎え、手あるいは頬に挨拶の接吻をします。そして更に、客人の髪の毛にオリブ油を塗るのです。シモンはそれらのどれもしませんでした!
3.ファリサイ派とこの女性との対比
この女性にとって、地上を私たちと共に歩んでくださること、まさに、主イエスの足こそ、最も貴いものでした。シモンはこの行為を見て、自分がイエスに対してしなかったことを示されるのではなく、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思ったのです。女性は自らの罪を自覚し、神あるいはイエスに多くの赦しを感じ取っていましたが、この男性は自分の義しさを主張し、神あるいはイエスに何の負債も重荷も感じていないのです。
4.借金を帳消しにされた人の譬え
借金を帳消しにされてどちらが感謝したか、どちらが喜んだかというなら分かりますが、どちらが「愛するだろうか?」という問いに多少、戸惑いを覚えます。
5.多く赦された者は多く愛す
「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(47節)。信仰に篤く、他者を愛する人になりたいと思うなら、自分が如何に多くの罪を神から赦されているか、その負債の大きさを自覚することが重要だというのです。
6.安心して行きなさい!
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)。この女性はこの物語の後、どこに行くのでしょうか?教会の交わりは、この女性を受け留め、居場所を提供できるでしょうか?(松見俊)