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2021.8.15 「悔い改めの祈り」(全文) ネヘミヤ記1:1-11

1:  戦争責任に関する信仰宣言

 今日は、8月15日です。76年前、日本はポツダム宣言を受け、敗戦となりました。日本バプテスト連盟は1988年の定期総会において、「戦争責任に関する信仰宣言」という信仰宣言を採択しました。戦争責任に関する信仰宣言の一部を紹介いたします。

「・・・私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活において私たちの罪を審きつつ赦す解放の福音にのみ聴き従う。主イエス・キリストこそ教会と世界の主であり、私たちはみ子イエスから父なる神の支配を語り、この世界を神の被造世界として受け取ることが許されており、またそうするように命じられている。しかし、かつての大戦下、私たちは、まさにこの主告白において誤りを犯した。すなわち私たちはこの世界に主イエスの支配の及ばない領域を認め、「神社は宗教にあらず」と強弁しながら天皇を「現人神(あらひとがみ)」とする天皇制国家とその侵略戦争を教会と両立できるものとし、しかも戦争遂行に加担して隣国の人々に対し、神社参拝を強要するような誤りさえ犯した。・・・そして私たちは、「むさぼり」が今日においてもアジア諸国の民衆を抑圧するばかりか自らの生をも歪めていることを知りながら、未だ福音に応答する「平和を造り出す者」の生き方を実現できないでいる。私たちは深い痛みをもって自らの罪を告白する。また、私たちは、天皇制国家が持っている問題性について十分に問うことをせず、その体質を引き継ぐことによって、主告白をあいまいにしていることを自らの罪として告白する。・・・」(「戦争責任に関する信仰宣言」より)

連盟の「戦争責任に関する信仰宣言」では、かつての侵略戦争に加担したこと、隣国の人びとを抑圧したこと、また未だに平和を造り出す者としての生き方を、実現できていない罪を、自らの罪として告白するのです。私たちバプテスト東福岡教会も、日本バプテスト連盟に連なる教会として、この私たちの国が犯した過ちについて、この時、今一度、受け止め、自らの罪として告白し、悔い改めの祈りを為していきたいと思います。

 

2:   苦しみは誰の責任か

この悔い改めの祈りについて、今日は、ネヘミヤ記から学んでいきたいと思います。ネヘミヤは祈ります。この祈りは、まさに、過去の人々の過ちを、自分の罪として受け入れ、悔い改める祈りです。そして、この悔い改めの祈りこと、人と人とを、結びあわされていく祈りなのです。この時、ネヘミヤはバビロニアの地において、献酌官として、それなりの安定した職業に就いていました。ネヘミヤはユダ地方から来た人たちに、故郷エルサレムの様子を尋ねるのです。ネヘミヤの質問に対して、ユダから来た人々は、3節おいて、このように答えます。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」(ネヘミヤ1:3)まだ見ぬ故郷エルサレムは、未だに廃墟のままの町であり、そこに住む住民たちは辱めを受けている。ネヘミヤは、そのような様子を聞いたのでした。しかも、その土地は、もともと神様がイスラエルの人々に約束してくださった、約束の地です。そのような神様が与えてくださったはずの土地が、廃墟となり、人々は苦しみ、辱めをうけて暮らしていることを聞いたのです。

このような悲惨な報告、苦しみの現実を聞くとき、多くの場合は「どうしてこのようなことになってしまったのだろうか・・・」「なぜこんなことになってしまったのか・・・」と思うことでしょう。そして、そのような困難の中で、「どうして」とか「なぜ」という疑問が大きく膨れ上がる時、・・・「この苦しみは誰のせいなのか」という思いへとつながっていくのです。つまり、その苦しみの責任が誰にあるのかと考え、他者を責め、非難する思いへとなっていくのです。この時のネヘミヤの状況から見れば、この疑問、非難の答えは「エルサレムをこのようにしてしまったのは、町を破壊した、バビロニアの人々だ」となるでしょう。しかし、このような思いは、それだけでは留まらず、次から次へと、他者を責め、非難していく心となっていってしまうのです。

「エルサレムがこのような状態なのは、バビロニアの人々だけのせいではない。エルサレムの復興の邪魔をしている、エルサレムに住む、外国の人々のせいでもある。それ以上に、一番の非難の対象は、結局、今、エルサレムに住んでいる、イスラエルの人々の責任なんだ」となるのです。そして、最終的には「自分の先祖たちが、神様から離れなければ、このようなことには、ならなかった。そうしていたら、今頃は、自分たちもエルサレムにおいて、生まれ、育っていたかもしれないのだ。すべては先祖が悪いんだ」と、そのように、先祖の罪を非難し、そこに責任を負わせていく思いへとつながっていくのです。

 

3:   悔い改めの祈り

私たちもまた、自分が苦しみに出会うとき、このように他者を非難し、責任を負わせていくことがあるのではないでしょうか。それこそ、それがいけないというよりは、それが私たち人間の弱さであり、私たち人間の進んでしまう道ということができるとも思うのです。ネヘミヤは、生まれた時から、すでにバビロニアという異国の土地しか知らないのです。ネヘミヤはエルサレムが滅ぼされていった中の犠牲者です。ところが、ここでは、その犠牲者であるはずの、ネヘミヤは、神様の前で座り込んで泣き、嘆き、食を断ち、祈りを捧げていくのです。

その祈りが、5節からの祈りです。ネヘミヤは、神様の前で、罪の悔い改めの祈りを祈ります。

ネヘミヤは、エルサレムの滅亡を、他人事にはしなかった。誰かに責任を負わせて、終わりにはしなかったのです。ネヘミヤ自身は、もちろん、エルサレムが滅びるときに、そこにはいませんでしたし、エルサレムが復興しないのも、直接的にはネヘミヤの問題ではなかったのです。しかし、それでも、ネヘミヤは、神様の御前で、先祖の犯した罪を自分の罪として認め、その自分たちの罪の故に、今のエルサレムの状況があるのだという、悔い改めの祈りを献げるのです。

この悔い改めの祈りは、自分以外の誰かを責めることによって、自分は、神様の前にあって、正しい者であるとしない祈りでもありました。他者に責任を負わせ、非難するということ。エルサレムが、いまだに廃墟なのは、エルサレムを滅ぼした、バビロニアのせいだとか、復興しないほかの国々の人々のせいだとか、また、自分たちの先祖が悪いことをしたから、このようなことになったのだとか・・・そのように、他者に責任を負わせることは、神様の御前にあって、自分だけが正しい者であると主張することとなっていくのです。自分が悪いのではない。自分のせいではない、自分こそが、かえって被害者なのだと主張することなのです。

ネヘミヤは、神様の御前にあって、自分だけを正しい者とすることなく「先祖が犯した罪は、私の罪です」と、自分の罪として、神様の前に差し出していくのです。「神様を神様としなかった、あの先祖たちと、今の、自分と何の違いがあるのだろうか。私も、同じ罪人です。神様の御前にあって、私はただの罪人に過ぎない。私もまた、神様との関係が壊れてしまった、罪人なのだ。」「神様、私は悔い改めます。どうか、私たちの祈りを聞き届けてください」と、ネヘミヤは祈るのです。

 

4:   自分と他者を結びつける祈り

ネヘミヤの祈りは、自分だけを正しい者としない、自分の中にも同じ罪があることを認めた祈りです。この祈りは、自分と、他者とを、結びつける祈りなのです。私たちは、自分の罪を認めるということがなかなかできないものです。実際に、自分の過ちで犯した罪でさえも、人のせいにしてしまうことがあります。しかし、他者に責任を負わせることは、その人を自分から切り離していくこと、切り捨てていくこととなるのです。

エルサレムは滅ぼされた・・・それはバビロニアが悪い。いや、いつまでも復興を邪魔している、エルサレムに住んでいる外国の人びとが悪い。いや、元はといえば、やはり、神様に従わなかったイスラエルの先祖たちが悪い。そのようにして、誰かの責任にしていくことによって、私たちは、自分自身の罪から逃れようとし、自分と他者の関係を切り離し、他者を切り捨てていくのです。

これは、まさに、現代の私たちの社会構造を表してもいるのです。私たちの今の社会は、必要のなくなったものを、いかにうまく切り捨てるかということばかりを考えています。勝ち組、負け組と分けられ、勝つ方が負けた方を切り捨てていく、そのように役に立たないと判断されたものは、どんどんと切り捨てられていく社会です。現在は、新型コロナウイルスの感染が拡がっていますが、今は、世界中でワクチンの争奪戦が起こっています。富んでいる国がワクチンを手に入れ、貧しい国は見捨てられていく。強者が弱者を切り捨てているのです。自分さえよければ、他者はどうなっても関係ない。その人間の自己中心という罪の姿が、浮き彫りにされているのです。

そして、私たちの主、イエス・キリストも、また、そのような人間の罪によって、切り捨てられ、見捨てられ、十字架にかけられていったのでありました。しかし、そのとき、イエス・キリストはこのように祈りました。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」(ルカ2334

イエス・キリストは、自分の命を切り捨てていく人間のために、命をかけて祈って下さったのです。わたしたちは、このキリストの祈りによって、キリストの十字架によって、神様につなげられているのです。今日の聖書の箇所に出てきます、ネヘミヤの祈りは、罪を犯した先祖の罪と、自分の罪とを、一緒にすることによって、自分と先祖を結びつけていく祈りです。自分の罪と他者の罪を、同じ罪として認め、悔い改めていくなかで、初めて、私たちは結びつけられていくのです。切り捨てられるのではなく、切り離されるのでもなく、同じ、破れをもった人間として、同じ弱い人間として結ばれていくのです。

 

5:  イエス・キリストによって導かれる 

ネヘミヤは先祖の罪を、自分の罪として認め、罪を赦すことの出来る、ただ一人のお方、神様の前に、その罪の告白を行うのです。それは、罪の悔い改めの祈りでありました。罪の悔い改め。人間を、この悔い改めの祈りへと導く方、それがイエス・キリストなのです。イエス・キリストはこの世に来られ、十字架によって、苦しまれました。この十字架こそ、罪のない者が、罪ある者とつながる出来事でした。神様はこのイエス・キリストの十字架を通して、私たちを見捨てるのではなく、私たちとつながり、私たちを救い出す者、私たちを愛する者となられたのです。

このキリストの十字架を覚えましょう。キリストの十字架があるからこそ、私たちは、罪を裁き合うのではなく、共に悔い改めの祈りを献げていく者とされるのです。そして、そのために、今もイエス・キリストご自身が、私たちのために祈って下さっているのです。私たちは、このキリストの祈りを覚え、神様の前で悔い改めていきたいと思います。私たち一人ではできなくても、イエス・キリストが、共にいてくださり、私たちを、そのように、導いてくださっているのです。イエス・キリストが、神様の愛が、私たちを、罪の悔い改めへと、導いてくださるのです。ネヘミヤの祈りは、悔い改めの祈り、そして他者と自分をつなげる祈りです。私たちもイエス・キリストによって、この悔い改めの祈りを頂き、この祈りによって他者とつながる者とされていきましょう。(笠井元)