1: 終末・再臨の遅延
マタイ24章では終末・再臨の時について語られています。マタイの時代、教会では復活のイエス・キリストの再臨の時を待ち続けていました。しかし、なかなかイエス・キリストは来られないのです。その中で、「一体いつイエス様は来られるのか」「イエス様は来ないのではないか」と、終末・再臨に対する不安や疑問が起こっていたのです。イエス・キリストの再臨の遅れについて以前朝の祈祷会でⅡペトロから「キリストの再臨の遅れは、神様が忍耐されていることなのだ」と学びました。神様は私たちが一人も滅びないで、皆が悔い改めるために忍耐してくださっているのです。
2: 主が立てた僕とは
主人は出かけるにあたり、使用人たちを扱う者として、自分の代わりに僕を立てたのです。私たちは、それぞれが与えられた賜物によって神様に立たされた者です。私たち教会につながるすべての者が僕なのです。皆さんが、神様の僕として立てられているのです。
3: 僕として仕える者
忠実で賢い僕は、使用人たちに時間通りに食事を与えたのです。本来、使用人が主人に立てられた僕の食事の支度をするはずです。しかし忠実で賢い僕は、使用人に仕える者だと教えるのです。それに対して悪い僕は、まるで自分が主人になったように勘違いをしてしまっているのです。
ボンヘッファーは「仕えることを学ぼうとする者は、先ず第一に、自分自身を取るに足らない者と思うことを学ばなければならない」(『共に生きる生活』より)と教えます。私たちは仕える僕となるためにまず自分自身の弱さを正しく知りましょう。すべての人間に共通することは、すべての者が神様に愛されているということです。
4: キリストを頭として
「僕として仕える者となりなさい」。僕として完全に仕えられた方はイエス・キリストです。このイエス・キリストを頭として教会はあります。私たちはイエス・キリストに従う者として、互いに仕え合う者、賢い僕として歩みましょう。ボンヘッファーは交わりの中での第一の奉仕は、「他の人の言葉に耳を傾けることだ」と教えました。
イエス・キリストは、私たちを愛し、私たちに仕える者として、私たちの声を聞いていてくださるのです。イエス・キリストは私たちの心の奥の叫びを聞いてくださっているのです。私たちもお互いの言葉に耳を傾けていきましょう。お互いの心の中の思いを知り、共に分かち合うとして歩んでいきましょう。(笠井元)