1: 熟練した建築家パウロ
3章では、3つのたとえをもって一致について語られます。一つは、5~9節で、神の畑とそこに働く農業労働者のたとえを用いて語ります。パウロは、自分たちはキリストの十字架という福音を宣べ伝えるために働く、同労者であると語るのです。(3:6)
今日の箇所では、第二のたとえとして10節~15節において、土台とその上に建てられる家について、第三のたとえとして16節~17節において、神の霊が住まう神殿について語られます。
10節の「熟練した」という言葉「ソフォス」は「熟練した」のほかに、「賢い」「知恵ある」「思慮深い」と訳すことができます。パウロは自分を「熟練した者」として十字架のキリストという土台を据えたと語るのです。
「熟練した建築家」パウロです。しかし、Ⅱコリントでは、このパウロの評判は決して良いというだけではなかったと推測されるのです。【わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。】(Ⅱコリント10:10)それでも、パウロは人々の関心を得るための言葉ではなく、ただ忠実に神様からいただいた十字架のイエス・キリストによる恵みを語り続けたのでした。
2: 土台はイエス・キリスト
ドイツの福音教会では3:11-23を「宗教改革記念日」に読むそうです。イエス・キリストを土台として、何を素材として家を建てるのか。つまりキリストの上に、どのような教会を作るのかが問われているということです。「金、銀、宝石、木、草、わら」で家を建てることは、その価値の順番、または最初の3つは燃えにくく、後の3つは燃えやすいといった意味があるとされます。人間の知恵は「木、草、わら」のようなもので、すぐに燃えてしまうのです。神様は終末の時、すべての人間の業を裁かれます。そこに神の義が表されるのです。
【見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。】(マラキ3:19-20)
神の裁きは、人間を絶望させるものではなく、むしろ人間に希望を与えるものです。神様の前にすべての良いことも悪いことも、明るみに出されます。そのうえで15節にあるように、建てた家が燃えてしまい、損害を受ける結果になったとしても、イエス・キリストという土台のゆえに救いを得るのです。
3: 神の神殿としての信仰共同体
16節から第三のたとえとして、神の霊が住まう神殿について語られます。ここで主語が「わたし」から「あなたがた」に変わります。神の霊が留まり住まわれるところは個人ではなく「あなたがた」という信仰共同体に神の霊が留まることを意味します。パウロはこの信仰共同体を「神の神殿」として語りました。
この時はまだエルサレム神殿が壊される前と考えられ、ユダヤの民には、神の霊が留まるところとしてエルサレム神殿がありました。「あなたがたが神の神殿である」という言葉は、ユダヤ人の理解を大きく超えた言葉でした。
【従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。】(エフェソ2:19-22)
17節の言葉は、ただふさわしくない材料で家を建てようとする者ではなく、積極的に共同体を破壊する者を意味します。パウロ、アポロ、またその他の指導者たちは、土台をキリストとしながら違う材料で家を建ててきました。しかし、この当時のコリントの教会は、積極的に共同体を破壊する者となっていたのです。パウロは、このコリントの教会の人々に、「あなたがたは神の神殿である」「破壊するのではなく、この試練を乗り越えて成長するように」と願っていたのです。
パウロは、1章からコリントの教会に一致することを求めてきました。自分の知恵を優先させる時、そこには分裂が起こります。イエス・キリストの十字架に立ち返り、イエス・キリストの十字架を土台として歩んでいきたいと思います。(笠井元)