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2021.8.29 「義の実を蒔く」(全文) ヤコブの手紙3:17-18

1、原爆の日を覚えて

 毎年の8月には、広島と長崎の「原爆の日」を覚える行事や特集番組があります。今年はコロナ感染防止のため、平和記(祈)念式典は縮小された規模で行われ、そしてテレビ番組も五輪中継一色となり、「原爆・核・戦争」関連の特集が少なくなったように感じます。そんな中、思い出したのは今年3月に亡くなられ、広島教会で知り合った故人O先生のことです。O先生は、牧師ご退職後に被爆体験者として語り部活動を続けてこられ、平和への想いを誰よりも強く持っておられた方でした。初めてO先生と出会ったのは、20166月、私が牧師として赴任したばかりの頃です。既に80代後半になられたのですが、元気な明るい笑顔、握手の時に力強く握りしめた手、「広島教会へよくいらっしゃいました」との歓迎の言葉を今も覚えています。広島教会にいた頃はよく教会の被曝体験者の証言を聞いておりましたが、福岡に戻ってから、2019年、「広島・平和と共生の旅」という西南大ボランティアセンター主催の活動に大学生と参加しました。その際に、O先生がわざわざ来てくださって、語り部としてご自身の被曝体験を語られました。今まで一番印象深かったのは、先生が原爆の証言を語られた後、必ず毎回皆の前で、私に次のような告白を語られることです。「被爆したのは、16歳の時でした。中国人のあなたには本当に申し訳なく思っているのですが、戦争当時は、日本の勝利を願っていました。私は他のアジア人の気持ちや戦争のことについて何も知らなかった。申し訳なかった。」と。私は毎回、先生の告白に何の言葉を持って返せば良いのか分からず、ただただ黙ってうなずくだけでした。私は、自分が戦争の中で命を失われた同胞の代わりに誰かを憎んだり、あるいは誰かを赦したりすることは、傲慢な行為だと思っていたからです。そんな恨みも赦しもない私でしたが、勇気のある誠実な告白をされた先生のことを心から尊敬するようになり、本当に素敵な方だなと思いました。先生が亡くなられ、さらに被爆体験者が高齢化する中、これから一体誰が戦争の無残さ、平和の大切さを語り継いでいくのでしょうか。

 

2、人間の正義

 私が初めて広島平和記念資料館を訪れたのは20164月、広島教会に赴任する前のことですが、神学生として教会を訪問する際に、教会執事の方が案内してくださいました。資料館の中で、原子爆弾によって多くの命が無差別に奪われた悲惨な事実を目の前に茫然と立ち尽くし、あまりのショックで言葉を失いました。それまでは、多くの戦争被害者達の命は、政治家の貪欲な利益追求や人種差別によって奪われたと考えていましたが、原爆投下で掲げられたのは、「正義」というものでした。戦争を終わらせるための戦争をしても良いという考え方がそこにあったのです。人間の正義が怖いと初めて感じた瞬間でした。O先生2005年に被爆体験を語られる中で、次の言葉を残しています。「私は被爆者として何かしたいと思っていましたけれど、このところ原爆体験記を語る語り部というのに応募して、勉強しています。余生はどれだけか分かりませんが、語るチャンスが与えられれば語りたいと思います。今、意識の中には、絶対に戦争はしてはならん、「憲法9条」を守らなければならんと思っています。被爆のことは、簡単に語れることではないかもしれません。例えば、韓国の人にとっては原爆が落ちたから日本の国から解放されたという気持ちがあるし、アメリカもソ連が日本に攻めてくるのをとどめようとする政治的配慮で原爆を落としたということを聞いたりしますけれど、やっぱり、落とさなくていいものを落としたという思いがあります。自分が韓国人の立場だったらとか、あれこれ思いながら、自分の気持ちをどうのように整理すればいいのか、スッキリしないのですが、でもなお語っていかなければならない、聖書にある「剣をさやに収めなさい」というイエス様の言葉に帰っていかなければどうしようもないと思っています。被爆者として、広島の人間として、「ノーモア・ヒロシマ」、「核兵器を持つことに反対」をきちんと言っていかなければ、という思いに満たされています。そういうことを、きちんと次の世代に語り継いでいかなければならないという思いでいます。」(『語り継ぐ〜私の被曝体験〜』P15-16)全人類の悲劇な歴史、その歴史に対する様々な解釈をどう受け止めればよいのかと悩まされ、様々葛藤を抱えながらも、なお、信仰の原点に立ち返って「戦争はしてはいけないものだ」という告白から、重みを感じました。それはまさに信仰者の言葉として大切に受け止めてたいと思っています。

 

3、平和実現への働き

 この夏、一冊の本と出会いました。『医は国境を越えて』という中村哲先生の著書です。中村先生の生前の働きとして大干ばつに襲われたアフガニスタンで用水路建設活動に従事されたことが知られていますが、ただ一人の医師として働く原点が垣間見える一冊です。先生ご自身の記録を通じて、現地の政治的状況や医療環境をはじめ、戦争の中で窮地に追い込まれる難民の子どもたち、病気と社会的偏見の二重の苦しみを受けたハンセン病者の存在を知ると共に、派遣先のペシャワール・ミッション病院での「らい病棟」設立とそれにまつわる対立感情、病院内外の権力闘争、援助資金の不当扱い問題に巻き込まれた一人の医師の苦労がうかがえました。そのような複雑で困難な状況の中、中村先生は難民やハンセン病患者に寄り添い、パキスタン・アフガニスタンの国境を超えた共通の基地の設立を図り、そのために尽力されてきました。ペシャワール・ミッション病院らい病棟開院を迎える際、新病院の入り口の記念板に次の文字が刻まれていました。

 「本病院は多くの日本の寄付者とアフガニスタン・パキスタンの人々の献身的な協力により、らいを初め恵まれぬ患者たちのため、建設された。この病院に拠り、民族と国境を越え、平和と融合を掲げ、日本とパキスタン・アフガニスタンの良心を体現することをここに誓うものである。一九九八年四月二十六日」(『医は国境を越えて』P338

 

4、平和のうちに義の種を蒔く

 皆さんは「平和の実現」を考える時に、どんな光景が頭に浮かぶでしょうか。私は、平和とは思えない時代・世界・社会の中、混沌とした状態を前に、ひたすら命に寄り添って地道な働きを積み重ねる働き人の姿を思い浮かべるのです。平和は、力の行使ではなく、柔和な行いの伴った知恵を持つ者によって体現されるからです。先週、アフガンでは、爆破テロが発生し、多くの犠牲者が出ました。私たちの世界は今どうなっているのでしょうか。国と国、人と人、宗教と宗教との間は、決して平和な状態にあるのではありません。貧困や社会的孤立、コロナに苦しんでいる人が大勢いるのに、差別や偏見、報復暴力の連鎖が止むことなく続いています。このような時代において、主の体なる教会は、一体誰と一緒に、何のために働き、これからはどんな言葉を発信しくのでしょうか。この世でキリストより与えられた使命を果たしていく上で、必要な知恵を神様に祈り求めたいと思います。聖書の言葉です。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。私たち人間側の正義を絶対視するのではなく、常に神様の義を求めつつ、平和のうちに義の実を蒔いて行きたいと思います。

 最後に、西南学院小学校の3年生が書いたチャペル講話の感想文の一部を紹介します。そこには平和への思いが綴られています。「平和とは。日本では、何事もなく、みんな元気でいる。また外国では、自分たちの国をへいたいがまもる。でも本当の平和はそれじゃない。一人一人を愛し合っている、それが平和だとわたしは思う。せんそうはぜったいあってはならない。あることがおかしい。(劉雯竹)