1: すべての者が天の国に招かれている
今日の個所で、イエス様は、「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめが、それぞれともし火をもって、花婿を迎えに出ていく」(25:1)と語られました。十人のおとめたちは、それこそ賢い者も、愚かな者も関係なく、花婿を迎えいれることが許されていました。つまり、ここではまず、賢いか、愚かかということは関係なく、すべての者が花婿を待つ、花嫁とされていたということです。この後、愚かな五人のおとめは、油を買いに行く間に、扉を閉められてしまいましたが、本来、花婿の到着を待つこと自体は許されていたのです。ここでまず、私たちが覚えたいのは、「天の国」。「神様の愛の支配」はすべての者に与えられているということです。賢くても、愚かでも、それこそ神様に忠実に生きていたとしても、そうでなかったとしても。天の国への道は開かれている。神様の愛はすべての人に注がれているのです。
ただ、この世には、自分は愛されているということを知らない人、また、むしろ愛されているということを受け入れたくないという人、そしてまた、他者を愛する、愛そうとすること自体が間違っていると考えている人がおられます。幼稚園では朝礼でマザー・テレサの本を読んでいますが、マザー・テレサは何度も「まず一番近くにいる家族を愛しましょう」と語っています。世界の平和のため、私たちにできることとして「まず隣にいる家族のことを知り、理解し、受け入れて、愛し合いましょう」と言うのです。つまり、それほどにマザー・テレサは「家族を愛する」「近くにいる人を愛する」ということが、必要であり、同時にそれが、とても難しく、多くのところでなされていないことであると、見てきたということだと思います。
私たちも、お互いを愛し、愛されるということについて、一番身近な家族との関係において、または、一番近くにいる、友人や、ここでは教会の隣にいる人との間にあって、その難しさを感じることがあるのではないでしょうか。聖書は、そのような私たちすべての人間に、「あなたは愛されている」「神様は、わたしたちを愛し、この世界を造り、私たちの命を造ってくださった。そして、今日も、明日も私たちを愛して養ってくださっている」と教えます。
そして、だからこそ、神様は「あなた方も互いに愛し合いなさい」と願っておられるのです。
今日の箇所では、まず神様は十人のおとめ、それは賢いとしても、愚かな者だとしても、関係なく愛しておられる、すべての者が天の国、神の愛の支配のもとに招かれているということを学びたいと思います。
2: 人間には限界がある
この神様に愛されているということを前提に、今日のたとえ話があります。ここでは、五人の賢いおとめと、五人の愚かなおとめが登場します。覚えておきたいことは、五人の賢いおとめも、五人の愚かなおとめも花婿が来る前に眠ってしまったということです。だれも花婿がやってくることを待ち続けることはできなかったのです。人間には限界があるのです。
少し前になりますが、幼稚園の宗教教育で「バベルの塔」についてお話をしました。この「バベルの塔」は物語、お話としてはわりとおもしろい、聞きやすいと思うのですが、その内容を理解することは、わりと難しいものだと思うのです。それこそ3才から5才の園児に、どのように話すのかは、とても悩みました。「バベルの塔」の話は、様々な角度から聞くことができると思いますが、今回は、人間がどれほど塔を高くしても、天を越え、神様を越えることはできない。そして、それほど大きな愛で、私たちは神様に守られているということをお話ししました。今日の箇所では、賢いおとめも、愚かなおとめもどちらであったとしても、十人のすべてのおとめが、花婿を待ち続け、起き続けていることができなかったのです。ここに人間には限界があることを知るのです。
そのうえで、賢いおとめは油を準備して、愚かなおとめは油を準備しなかったということです。 つまり、賢いおとめは、自分たちが起きて待ち続けることができず、眠ってしまうこと、そして、今ある油では足りなくなることを予想していたのです。それに対して、愚かなおとめは油を準備し、備えるのではなく、起き続けようとしていたのです。自分たちは起きて待っていることができると思っていたのでしょう。愚かなおとめたちの愚かなところとは「自分たちには備えることが必要だ」と思うのではなく、「自分たちは自分の力で起きて待つことができる」と思っていたことです。つまり、自分たちの限界、人間としての弱さを見失っていたのです。これこそこのおとめたちの最大の愚かさです。
3: 油とは何なのか
この箇所を読む中で、油を備えるにあたり、油とは何だったのか、何を表しているのかということがこれまで何度も議論されてきました。これまではどちらかというと、「油」とは「よい行い」として理解されてきたようです。しかし、実際にそのように理解すると、人間は自分の行いによって備えることが求められている。つまり良いことをして生きている中で、天の国を手に入れられるという話になってしまうのです。先ほども言いましたように、人間には限界があります。そして、人間が自分の行いによって神の御許に行くわけではないのです。愚かなおとめたちは、自分の弱さを忘れ、油を用意しなかったのです。それに対して、賢いむすめたちは、油を準備して眠ったのでした。
イエス様は、十字架の上で死なれるとき、ルカによる福音書では「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と叫んだのです。この言葉はもともとは、詩編31編の言葉で、ユダヤの人々が眠る前に祈った言葉とされています。「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」(詩編31:6)ユダヤの民は、このように祈り、神様に委ね、目を閉じたのでした。つまり、眠ることを、自分の魂、命を神様にお返しして、すべてを委ねる時として考えたということです。
あまり、このようには考えませんが、本当のところ、私たちは、自分が、明日起きたとき、生きているかどうかは、わからない存在なのです。今日寝て、明日起きる前に、すでに死んでいたということは実際にありうることです。私たちは、誰もが、いずれ、この世を去り、神様の御許に召されるのです。私たちの命は、神様から与えられ、神様によって守られ、養われているのです。ユダヤの人びとは、自分の命は、神様から与えられている命だと理解するために、眠り、目を閉じるときに、この一日の命を、神様にお返しし、また明日、神様から命を頂いて目を開けたのでした。
賢いおとめたちは、自分たちの弱さ、限界があることを知っていたのです。花婿がいつくるかも、知ることはできないし、それまで起きていることができるのか、それも自分たちにはわからないということを受け入れていたのです。そしてだからこそ、油を準備して眠ったのです。それは、神様に委ねて眠り、そして花婿を待ったということができるのです。この神様に委ねるということ。この「委ねて」「待つ」姿こそ、信仰の姿であり、賢いおとめたちの備えた「油」ということができるのではないかと思うのです。
4: 委ねて待つ
皆さんは、自分の人生を神様に委ねるということ。そして神様の愛を待つということができるでしょうか。「神様に委ねること」、そして「神様の愛を待つ」ということは、「自分では何もしなくてよい」とも「ただ神様に預ければいいんだ」とも思えます。そのような意味では、とても簡単に感じるかもしれません。しかし、私たちには、このこと、神様に委ねて、神様の愛を信じて待ち続けるということが、なかなかできないものなのです。私たちは、困難に出会った時、まず自分の力でどうにかしようと思うものです。それがいけないということではありません。もちろん自分で努力することも大切です。ただ、その前に、まず神様に委ねたい。神様の愛を信じて、祈りたいと思うのです。私たちは、神様に委ねて眠る、委ねて待つということを覚え、神様の愛の支配の時を待ち続けたいと思います。私たちの命は神様から与えられているものであり、神様が、私たちのために御業をもって養ってくださるのです。このことを信じて委ねるとき、私たちは不安と絶望から、解放され、平安と希望を頂くことができるでしょう。
主なる神様は、私たちの主人として、私たちを養い、命を守ってくださるのです。私たちには、自分の人生が、これから先、どれほどの喜びが待っているか、またはどれほどの困難があるのか、その一秒先のことさえも、どうなるのか、分からないのです。だからこそ、誰よりも信頼できる方、命の造り主である神様に委ね、眠り、神の国の到来、愛の御業を待ち続けていきたいと思います。
(笠井元)