1: 神様から預けられている賜物
今日の箇所では、ある人が旅行に出かけるため、僕を呼び、それぞれの力に応じて、ある者には5タラントンを、ある者には2タラントンを、そしてある者には1タラントンを預けました。ここで言われているタラントンという言葉は、「タレント」日本語では「才能」や「能力」の語源となっている言葉となります。ここでは、神様が、私たちに対して、それぞれに「タレント」、「才能」や「能力」といった、いわゆる「賜物」を預けて下さっていることを教えています。
聖書の後ろには「度量衡(どりょうこう)および単位」という表があります。そこで、「タラントン」とは「ギリシアで用いられた計算用の単位で、6,000ドラクメに相当」と記されています。ドラクメとは、デナリオンと同じ価値とされる単位で、1デナリオンは一日の賃金に相当されるものとなります。一日の賃金を8,000円と考えますと、1タラントンは6,000ドラクメとありますので、1タラントンは4,800万円となり、5タラントンは2億4,000万円にもなるのです。
神様は少なくとも4,800万円もの価値のある貴重で大切な財産を、賜物として、私たちに預けられている、それほどに、私たちに期待して、大きな賜物を、私たちに預けて下さっているのです。
ルカによる福音書にも、この箇所に似たような箇所があります。ただ、マタイとルカの大きな違いは、マタイでは、それぞれに5タラントン、2タラントン、1タラントンと、違う金額を預けられたのに対して、ルカではそれぞれに1ムナという同じ金額を預けられたのです。ルカによる福音書では、それぞれに同じように与えられているということから、1ムナとは、神様の恵みを意味しているものとして受け取ることができるのです。神様の恵みはすべての人間に、同じだけ注がれているのです。このことも覚えておく必要があるでしょう。私たちは、すべての者が、同じだけ神様に愛されているのです。
そのうえで今日の箇所、マタイによる福音書では、それぞれに違う金額を預けられています。今日の箇所では、すべての者に、違いはあれ、神様の大切な財産を預けられていることを教えているのです。実際に、ここでは5タラントン儲けたものをより一層素晴らしい者とするのではなく、どちらも同じように「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(21,23)と言われたのです。神様は、その儲けた金額ではなく、そのタラントンを用いたことを喜んだのでした。 神様は、違いはあれ、私たちに大切なタラントンを預けて下さり、そのタラントンを用いることを願っておられるのです。
2: 大切に用いる
しかし、私たちは、その金額の違い、つまり与えられている「タラントン」「賜物」の違いばかりを見てしまうものです。自分と他者を比較して、「あの人にはあれほどの能力があるのに、なんで自分には与えられないのだろう」と自分を卑下し、劣等感をもってしまうこともあれば、「あの人に比べれば自分は優れている。自分は良い人間だ」と自分を過大評価し、優越感に浸ってしまうことがあるのです。しかし、この聖書の物語では、それぞれの能力の比較、または、競争といったものは、全く問題とはなっていないのです。ここでは、5タラントン預かった者が5タラントンを得て、2タラントン預かった者が2タラントンを得た。つまり、自分に預けられたものを、大切にして、きちんと用いた。神様はこのことを喜ばれたのです。
以前、私が札幌にいた頃の話ですが、ある高齢の方がこの聖書の箇所を読んで、このようなことを言われたことがありました。「年を重ねて、今思うことですが・・・自分は、何もできない赤ちゃんとして生まれ、色々なことを学び、覚え、能力を得てきました。しかし、今、自分は年を取り、衰え、色々なことが出来なくなりました。それでも少しおこがましいかもしれませんが、自分は1タラントンを預かっていた時もあれば、2タラントン、5タラントンを預かっていた時期もあったのかもしれませんね。今は、自分は1タラントンを預かっていると思うのです。だから今、自分にできることは、この1タラントンを大切に用いたいと思います」と言われたのです。
私は、このタラントンの話を、自分の人生の中で考えたことはありませんのでしたので、面白い読み方だと思いました。この箇所は、そのように「他者」または「過去の自分」と比較をする私たちに、「あなたには、あなたのタラントンが預けられている。そのタラントンを用いて精一杯神様に仕えなさい」と教えているのです。
3: 1タラントンを預けられた者
今日の箇所において、一番注目すべきことは、1タラントンを受け取った者についてです。先ほども言いましたが、1タラントンは4,800万円相当とされます。それは莫大な金額です。しかし、1タラントンを受け取った者は、そのお金を穴を掘って隠しておいたのです。そして帰ってきた主人にこのように言いました。24、25節です。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して、おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』(25:24-25)
1タラントンを預かった者には、二つの間違いがありました。一つは、主人に1タラントンを預けられたことに対して、感謝をしなかったということです。私たちは、自分の人生を喜んで、感謝しているでしょうか。私自身、生まれつき大きな病気を抱えてきていますので、生まれたこと、生きていることが苦しい時が何度もありました。それこそ、今でも時々あります。「こんな私に何ができるだろうか」「神様はこのような人間をなぜ造られたのだろうか」「自分は神様の失敗作ではないだろうか」と思ってしまうのです。皆さんは自分の人生を喜び、感謝しているでしょうか。
神様は、私たちに大切な賜物を預けて下さっているのです。それは神様が私たちを信頼し、私たちに預けた、大切な賜物です。私たちは、神様が私たちを信頼してくださっていること、そして神様の大切なものを、私たちに預けて下さっているということを、決して忘れることなく、感謝する者とされたいと思います。
そして、1タラントンを預けられた者のもう一つの間違えは、「自分の安全を求めた」ということです。これは、「預けられた主人の意図を受け取らなかった」とも言うことができます。主人は、1タラントンを「安全な場所で保管してほしい」と思って預けたのではなく、この「タラントンを用いてほしい」と思って預けたのです。私たちは、何のために生きているのでしょうか。何のために、勉強し、何のために、様々な能力を得ているのでしょうか。自分の名誉や権力のためでしょうか。自分の財産のためでしょうか。聖書ではこのように教えます。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(Ⅰコリント13:2-3)
「愛」がなければすべては虚しく、無に等しいのです。
私たちに預けられている賜物は、自分を守るためにあるのではなく、隣人を愛するために、隣人に仕えるために預けられたのです。1タラントンを預かった者は、恐れ、不安の中、自分を守るために、賜物を預けられながらも、用いることはしなかったのです。神様は、そのような者に対して、このように言われたのです。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。』(25:26-27)「怠け者の悪い僕」とは、寝っ転がって何もしないということではなく、自分のためだけに生きて、神様のため、隣人のために生きない者を意味するのです。
4: 預けられた賜物を用いる決断
私たちは今、神様が自分を愛して、大切なタラントン、賜物を預けて下さっているということを覚えたいと思います。何も預けられていない者はいないのです。神様はすべての者に、それぞれの賜物を預けて下さっているのです。皆さんも自分に預けられている賜物を考えてみてください。また、隣人の賜物も考えてみてください。必ずあります。それこそ、皆さんとこのように礼拝を持つことができること自体が、皆さんの賜物によるものだと思います。皆さんと挨拶をして、顔を合わせているだけで、私にとっては、神様の恵みを感じることができることです。それこそ生きていること自体が、命の造り主である神様の作品として歩んでいるのですから、賜物を用いていると言うことも出来るでしょう。
私たちは、自分ではわからなかったとしても多くの賜物が、預けられています。神様は私たちを信じ、信頼して、預けて下さっているのです。私たちに求められているのは、その賜物を用いて生きる決断です。神様が預けて下さっている賜物を用いて歩みだしたいと思うのです。「自分には何もない」と思うとき、神様が私たちを愛してくださっていることを思い出しましょう。神様が私たちを愛して、命を与えて下さっている。そこに豊かな恵みがあるのです。そのことを信じて、一歩歩き出したいと思います。私たちは、神様から預けられている多くの賜物を、神様のため、隣人のために十分に用いて生きていきたいと思います。そして、お互いに仕え合い、支え合い、神様の栄光を表す者として、歩んでいきましょう。(笠井元)