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2021.9.19 「老いを生きる:大地の荒廃と主の救いの証人として」(全文)  ヨエル書3:1-5

 明日は敬老の日です。教会は今日の礼拝を敬老特別礼拝として守っています。東福岡教会の教会員の平均年齢はどのくらいだと思いますか?919日時点で55.4歳です。これをお聴きになって皆さんはどう思われるでしょうか?私は感覚的には60歳くらいかなと思っていました。笠井牧師夫妻は平均年齢より若く、牧師の子どもたちも平均年齢を下げているのですが、教会に若い人たちが加わることは嬉しいことですね。むろん、ギネスブックに載っている世界一長寿の中村カ子さん、118歳が西戸崎バプテスト教会の会員であり、東福岡教会の秦三謝子さんもご長寿で、96歳、川口雅子さんも今月91歳になられるのも素敵なことです。今朝は、敬老特別礼拝ということで、高齢者の生き方に焦点を当てて聖書に聴いてみましょう。選んだ聖書箇所はヨエル3:1~5です。「老人たちは夢を見る」。この個所は使徒言行録2章、いわゆるペンテコステの日の出来事の中で引用されています。終わりの日には、主なる神は、男性と女性、若者と高齢者、自由人と使用人を問わず、すベての人に霊を注いで下さり、神の真実を語る力、夢を見る力、幻・ヴィジョン・希望の想像力を持つ力を与えて下さると約束されています。そこでは、「預言」の「夢」も「ヴィジョン」もほとんど同じ意味です。

 

1.高齢者の使命:歴史を物語ること

 私たちはどのような「言葉」を語り、「夢」を見、「ヴィジョン」を持つでしょうか? 皆さんの「夢」、将来のヴィジョン」とは何でしょうか? 「年を取り過ぎて今更夢も希望もない」、あるいは、「将来の自分のヴィジョンを持つには余りに若くて、未経験だ」と言うでしょうか?同じヨエル書1:2にはこう書かれています。「老人たちよ、これを聞け。この地に住む者よ、皆耳を傾けよ。あなたたちの時代に、また、先祖の時代にも、このようなことがあっただろうか。これをあなたたちの子孫に語り伝えよ。子孫はその子孫に、その子孫は、また後の世代に」。ここでは高齢者たちは全世代を代表して、その経験を子どもたちや子孫たちに、語り伝えること、物語をすることであると言うのです。新生讃美歌384には、「語り伝えよ 主のみ恵み」(I love to tell the story)というのであります。主の恵みを語ることは、高齢者だけではなく、すべてのクリスチャンの務めです。

 

 

2.語り伝える内容:未曽有の苦難の経験、神の救いの出来事、将来の審判と救い

では、私たちはどのような物語を語るのでしょうか?ヨエル書は紀元前400年頃に書かれたと想定されています。皆さんは、紀元前6世紀にエルサレムが破壊された悲劇について、主だった人たちが敵国バビロンに捕虜として連れて行かれたことは度々聞かされてきたことでしょう。約50年後バビロンから帰ることが許され、エルサレムにささやかな神殿が再建された矢先のことです。イスラエル地方を襲った「想定外」とも言うべき大量のイナゴの発生、旱魃による極端な苦しみを経験したことは余り知られていないかも知れません。預言者ヨエルと言えば、「イナゴの災害」と覚えておいて下さい。「いまだ経験もしたことのない」イナゴの大発生と旱魃をきっかけにして、ヨエルは預言活動を始めました。そのことは、1:1―2:17に書かれています。昔はイナゴを良く見たものですが、現在では、農薬が発達したせいか余り目にしません。祖母の時代にはイナゴを食べたりしていたようです。まあ、バッタを想像すれば良いでしょう。イナゴの大発生については空が見えなくなるような映像をテレビで見たことがあります。1:4には、「かみ食らういなごの残したものを/移住するいなごが食らい/移住するいなごの残したものを/若いいなごが食らい/若いいなごの残したものを/食い荒らすいなごが食らった。」とあり、イロイロな種類のイナゴが次から次に襲ってきたわけです。老人たちはこの災害をイスラエル民族の共通の痛みとして子孫に伝えよと命じられています。イナゴの災害・旱魃は神様が人間の歴史に介入される「主の日」が近づいていることの「しるし」であると言われています。これに対して、2:1827では、イスラエルの民が悔い改め、断食と祈りを行った。すると、主なる神がイスラエルを憐れみ、その民を救い出してくださったことが書かれています。苦難とセットになった救いの物語です。救いの出来事とセットになった苦難の物語です。2:28-3:21には、近い将来、主なる神による世界の審判と救いの約束が記されています。こうして、語るべき物語は、1)未曽有の苦難の経験、2)それにもかかわらず、主なる神が救いをもたらしてくださったこと、3)終わりの日に起こる神の裁きと救いのヴィジョンです。この3つのことを語れと言われています。

 

3.大地の荒廃の事実

 イナゴの大量発生はこの地域では度々起こったようです。現在でも時々ニュースになりますが、預言者ヨエル時代の災害は尋常のものではなかったようです。そして、散々な被害に続いて、雨が降らず、パレスチナの国土は荒れ果てました。私たちの今日の世界も同じような経験をしています。度重なる大地震と津波による被害、火山の噴火、乱開発・大気汚染による異常気象がもたらしていると考えられる大雨による水害、それに追い打ちをかけるような新型コロナウイルス感染などに襲われています。私たちの老後は年金の問題もあるでしょうが、もう少し平安なものであると考えていたのではないでしょうか。そのような地球世界の荒廃だけではなく、自分も含めて、人間の劣化というか、異様な犯罪、政治・行政世界の混迷とも、あるいは、荒廃ともいうべき現実に直面しています。預言者ヨエルが直面したパレスチナのあの時代の荒廃の現実はどこか現代の世界にも繋がっているようです。そして、世界の荒廃はどこか人間自身の荒廃、意気阻喪とも繋がっているのではないかと思います。人は長く生きるだけ深刻な問題、人間の罪ともいうべきものを経験し、生きる辛どさを抱え、「人生はどこか過酷であること」を語り継ぐ役割を与えられているのです。

 

4.主なる神の憐れみ深さ

 預言者ヨエルはそのような度重なるイナゴの害や旱魃に直面しながら、イスラエルの民が悔い改めたとき、主なる神がその民を深く憐れみ苦難の底から助け出してくださったと語っています。「あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」(2:13)と言われ、「そのとき、主は御自分の国を強く愛し、その民を深く憐れまれた」(2:18)と言われています。イナゴの害や旱魃が去ったのでしょう。人はしばしば苦しみを経験するにもかかわらず、神は神に信頼する人たちを救って下さったという事実の経験を証しすることができます。わたしたちクリスチャンの場合は、イエス・キリストの生涯、つまり、神に従い、無差別・無条件で隣人を愛することで受けた苦難と喜び、そして、その結果として十字架で殺されたこと、三日目に復活したことを証言します。私たちは味わった苦難の経験をイエス様の愛の物語と関係づけながら物語ります。苦難を単なる苦難としてだけでなく、救いとの関連において語り、逆に、主イエスの愛の物語をただ抽象的に信じるのではなく、自分自身の弱さや困難な出来事との関りの中で語ること、そして、悔い改めと共に語ることが求められています。

 

5.自分の老化や弱さを笑い、しかも、希望をもって生きること

 ある時、鹿児島の霧島温泉の蕎麦屋に入りました。(2021712日)結構美味しいざる蕎麦をいただきましたが、たぶん80歳過ぎの老夫婦が二人だけで店を切り盛りしているのでしょう。「もう年ですので、出来上がるまで少し時間がかかります。ちょっと待っていてください。という張り紙がありました。その下に面白い言葉が書かれていました。題は「18歳と81歳の違い」というものです。「恋に溺れるのが18歳、風呂で溺れるのが81歳。道路を暴走するのが18歳、道路を逆走するのが81歳。心が脆いのが18歳、骨が脆いのが81歳。偏差値が気になるのは18歳、血糖値が気になるのは81歳。まだ世間を知らないのが18歳、もう何も覚えていないのが81歳。自分探しをしてる18歳、皆が自分を探してる81歳。」多分自分自身が81歳なのでしょう。自分の老化、弱さを笑う自由と若者への微笑(ほほえみ)を感じられる言葉だなあと感心しました。客は少なくなっても最後まで旨い蕎麦を食べさせ、仕事を全うしようとする意欲も感じました。老化を受け入れながら、それを笑い、また、育ちつつある若者をちょっと心配し、でも、期待しながら、できることをする。しかも、どこかよそ様のためになる生き方をすることは素敵ではないでしょうか?私たちクリスチャンはこのようなユーモアにもう少し、付け加えることがあるでしょう。人は少しずつ年老い、衰えて行きます。あとどのくらい生きられる、生きるかは分かりません。十年後、二十年後のことは分かりません。しかし、明確なことは、老いや死を超えた神の命に与る希望、かの日に貧しい私たちが造り変えられるという希望があります。救いの約束が確実に与えられている者として、何十年先の計画より、ささやかでもいいですから、一歩一歩他者のために何かすることが大切ではないかと思います。それを神の憐れみを証言することとして出来たら良いと思います。

 

 6.結語

 

 私たちの社会は、ヨエルの時代のようにイナゴの大発生や旱魃で大地が全く荒廃してしまってはいないかもしれません。しかし、先の戦争の悲惨さを経験されたお年寄りもおられますし、かなり過酷な人生を経験された方もおありでしょう。そして、地震、津波、気候変動の影響を受けている人たちが沢山います。そして、今日、世界中が、イナゴならぬ、新型コロナウイルス感染の恐れに直面しています。私たちはヨエルがあのイナゴ災害を後世に伝えたように、子孫たちにコロナ・パンデミックを語らないでは自分たちの歴史を語ることはできないことでしょう。人は今までの生き方を変えないわけにはいかないでしょう。キリスト教信仰に生きる者は、このような危機的経験の証人となると同時に、「そのとき、主は御自分の国を強く愛し、その民を深く憐れまれた」ということの証人になるでしょう。その時が早く到来するように祈りましょう。