1: 神の秘められた計画をゆだねられた管理者
パウロは、自分たちのことを「キリストに仕える者」「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」と言います。
管理者について、ルカによる福音書ではこのように言われます。【主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。」(ルカ12:42-44)
管理者は主人が不在の時に召使いたちの上に立てられて、家の中を治める者とされています。パウロたちは、主人が再び来られる時までの間に、イエス・キリストの十字架という救いの御業を宣べ伝え続けるという使命を受け取り働いたのです。
管理者にゆだねられているのは、「神の秘められた計画」です。「神の秘められた計画」については、2章1-2節、7節で教えられています。
天地創造の前から定められていた神の知恵であるイエス・キリストの十字架こそ神の秘められた計画です。わたしたちは、自分が「神の秘められた計画」の中にあることを覚えたいと思います。
2: 管理人として忠実に生きる
主人に立てられた管理人に求められていることは、主人に忠実であることです。神様の御心に耳を向け、聞き従うこと、御業を実行することです。この管理人のことを注解書では「管理奴隷」という言葉で言い表しています。「管理人」は主人の奴隷として、主人の意思をくみ取り、命じられた働きを忠実に行う者なのです。
ルカ17章ではこのように言われています。
【あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」】(ルカ17:7-10)
神の意思に従い生きる。それこそ管理人として忠実に生きることなのです。パウロは、自分自身のことを「罪人の頭、最たる者」(Ⅰテモテ1:15)と言いました。自分の罪の重さを知り、同時に、その罪を赦すために死んでくださったイエス・キリストの恵みの大きさを受け取ったのです。管理人として忠実に生きること。それは神様の恵みに対する感謝から生まれるのです。
3: キリストの奴隷
奴隷はその主人に裁かれます。それはその主人の指示にどれだけ忠実であったかということです。ローマでは信仰の弱い兄弟を裁く者に対して、【他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。】(ローマ14:4)と教えます。
キリストに支配されること、神様の奴隷となることは、縛り囚われることではなく、それ以外のすべてのものから自由にされることを意味しているのです。
4: 主が来られるまで
私たちを裁かれる方はイエス・キリストのみです。再臨の時、主は私たちの闇の中に隠している秘密を、私たちの心の企てをも明らかにされるのです。そのすべてが裁かれるのです。
パウロはこの最後のとき【おのおのは神からおほめにあずかります。】(5)と語ります。パウロが手紙を向けたコリントの教会は、自分たちの知恵と権威を求め、お互いを受け入れず、分裂していた。そのような者たちにパウロは、「あなた方は最後の最後に、全てを神様に見られて、それでもあなた方は褒められる」と語るのです。
たとえどれほどの「闇」にあろうとも、どれほどの「罪」にあろうとも、神様は、イエス・キリストを通して、その「罪」を贖い、その「闇」を「光」としてくださるのです。神様の裁き、それはイエス・キリストによって、すべての者に救いが与えられたのです。私たちは、神様の愛を受け、どのような自分であっても、主が私たちを贖ってくださっていることを信じて受けていきましょう。(笠井元)