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2021.10.10 「勧告と祈り:その一人を得るために」(全文)  マタイによる福音書18:15-20

秋晴れの日が続き、昨日は東福岡幼稚園の運動会がありました。秋は、スポーツの秋と共に収穫の秋です。福音の種蒔きと収穫です。24日は福岡西部教会の麦野達一先生をお迎えして特別伝道礼拝が持たれます。祈って準備しましょう。今朝は、イエス様の良き音信を分かち合うということで、一人一人を大切にする教会の祈りを考えて聖書テキストとしてマタイ181520を選びました。15節の「兄弟(姉妹)を得たことになる」という言葉に「一人」を「一人一人」を大切にする主イエス様の眼差し、想いを感じ取ることができます。この言葉に焦点を当てて聖書の語ることに耳を傾けてみましょう。

 

1.小さな一人への主イエスの眼差し

 マタイによる福音書18章は小さな者への主イエスの眼差しを強調しています。1節~5節には、弟子たちは「天の国が到来したら、弟子の中で誰が一番偉いか」と論じあっていたあり様を描いています。先週は日本社会において岸田文雄内閣が誕生しましたが、大臣になった人たちはどのような想いなのでしょうか?序列や、誰がより偉いかと考え、市民そっちのけでは困りますね。そのように論じあう弟子たちに対して、主イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの「真中に立たせて」、この幼な子(to paidion touto)のように父なる神を頼る者こそ天の国に与ることができると宣言されました。そして、主イエスの名のためにこのような幼な子の「一人」、「一人のこの子ども」(en raidon toiouto)を受け入れるように命じておられます。この幼い「一人」が強調されています。6節以下は、イエス様を信じる「小さな者」を躓かせる災いを語り、10節以下は迷い出た一匹の羊(hen ex autōn)を追い求める羊飼いの譬えを主イエスは語ります。「これらの小さな者の一人(henos tōn mikpōn toutōn)が滅びることは、父なる神の御心ではない」と断言され、「これらの小さな者の一人」(hena tōn mikrōn)を軽んじないように気をつけねばならないと戒めています。ここでも一人が強調されています。正確に言えばこの「小さな」一人です。今朝、ここに集っている皆様一人一人がたとえ小さい者であるとしても、イエス様には掛け替えのない存在なのです。そのような者として皆さんは自分自身を大切にしているでしょうか?あるいは、自分は大きな者であると考えているでしょうか。そうであれば「はっきり言っておく、心を入れ替えて小供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」という言葉を聞くべきでしょう。

 

2.罪ある人間

 しかし、イエス様が大切にされる、その一人が同時に問題を抱える一人の人間でもあるわけです。ここで15節の「罪を犯す」とは、極めて具体的な過ちを意味しているのでしょう。他者を欺く、嘘をつく、誤魔化すそういう自分であることは多分誰でも経験することでしょう。ここではそれを超えて、法を犯す犯罪行為が意味されています。しかも教会の仲間の中での問題です。特に「あなたに対して」(この言葉のない写本もありますが)罪を犯す兄弟がいたとしたらとあるので個人的な関係の中での問題なのでしょう。そのような場合は、その人を尊重して、その人を辱めないために、彼あるいは彼女の問題を多数の人たちに吹聴せず、その人と一対一で話し合い、釈明を求め(elengxon)、隣人愛と連帯感の表明としての勧告を行うように言われています。人の問題点、スキャンダルを他者に言いたくなるのが人の常でしょう。

 

3.その人を「得たことになる」

 そういう自分を自覚しているので、兄弟あるいは姉妹を「得たことになる(kerdain)」という表現が私の心に響きました。この言葉は、マタイ福音書の2516のタラントの譬えにあるように、一般的には、商売をして、「儲けること」を意味しています。5タラントン預かった者は、「ほかに5タラントンをもうけた。2タラントンを預かった者も…ほかに2タラントンをもうけた」というような使い方です。しかし、パウロはこの商売用語を非常に印象的に使います。Iコリント9:19では、「わたしは、だれに対しても自由ですが、すべての人の奴隷となりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。…弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」。この引用文の最後が「救うため」とあるように、この「得る」という言葉は神の国へと人を獲得すること、救いへと人を獲得することを意味しています。その人を「得たことになる!」私たちは、自分の正しさが証明されるため、相手をへこますために行動しないでしょうか?主イエスはその人を「得るために」行動せよ、だから1対1で話し合えというのです。肝に銘じておくべき言葉でしょう。

 

4.縁を切ること?

 処が、話は違う結論に向かいます。マタイ18;17は「教会の言うことを聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言います。これは、主イエス様が言われ、行動されたことと真逆なことが言っているように響きます。そして、18節は、教会の繋ぐことと解くこと、赦さないことと赦すことを語り、ここから教会が伝統的に考えてきた「破門」(除名)に言及しているように見えます。

 この議論の途中で出て来るルールは、人間は頑固で、意地を張ったり、惚けたり、誤魔化したりするので、もし、1対1で、その人が悔い改めに導かれないなら、証人として、二人または三人で、話し合うようにと勧めています。このことも、その人が間違いを認めて、神の国へと獲得されることを目指しているとも理解できるのではないでしょうか?もしそれでも埒があかないなら教会の問題にすることもまた冷たい仕打ちというより、その人を「得る」ことを目指しているとは言えないでしょうか?しかし、教会と縁を切るようなことはどうなのでしょうか?私のスイス時代の同級生にドイツ人で、現在ドイツでバプテスト教会の牧師をしているクリストファ・バイヒャットという人がいます。彼の祖父がドイツ福音教会、つまり、ルター派教会からバプテストに替わったとき、その教会の牧師は、説教が終わった講壇から今後バイヒャートの店には行かないように、何も買わないこと、いわゆる「村八分」宣言をしたそうです。私には、冷たい仕打ちに思えますし、そのような行動をしたいとは思いません。教会は安易に除籍処分をすることがあってはならないでしょう。しかし、やむを得ない「絶縁」も実は、その人を得ることを目指している考えられないことはありません。パウロはIコリント5:5で不道徳な行為を改めない教会員に対して、「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」と語ります。永遠の光の下でその人が滅びないように、この世では敢えて冷たく見える処罰をすると言うのです。「肉を切らせて骨を切る」ではありませんが、いわばウルトラCですね。霊が救われるために肉を罰する、サタンに引き渡す、絶縁するというのです。それが本当に正しかどうかは私には分かりませんが、ここでもあくまで「その人を得ること」、「その人が救われること」が目的であると言えるのかも知れません。現在、東福岡教会はこのような問題を抱えている人はいませんが、東福岡教会は、「一人のその人を得るため」の行動をとりたいものです。スイスのある神学者は、「不正を不正と名指しする教会のみがそれを赦すことができる。この緊張を教会は持ちこたえねばならない。」と言っています。私は同時に、「それを赦す覚悟を持つ教会のみが不正を不正と名指しすることができる」と言いたいと思います。

 

5.祈りと復活の主イエスの臨在の中で

 

 そこで、主イエスは、弟子たち、教会を祈りへと導きます。19節は「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と約束されます。マタイ福音書18章は、一人、しかも幼く、小さく、迷い出た一人を強調していると言いましたが、実は人間の最小単位は一人ではなく、二人または三人なのです。私という一人の人間は、「あなた」という他者と出会い、共に生きることによって、祈り合うことで一人となるのです。一人の自分勝手な祈りは聞かれませんが、二人(duo デュエット)の祈りは聞かれるのです。また、20節には「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と宣言されています。祈りにおいてだけではなく、二人または三人がイエスの名によって集まる処に復活の命の主であるイエス・キリストが共におられるのです。インマヌ・イエスです。こうして、1920節は18章全体の鍵となる節です。キリストこそ教会の主であり、また教会において働いておられます。このお方は一人を追い求めるお方です。その一人はイエス様と共にいる一人、二人の内の一人です。そして、人間は、さらにもう一人の他者と出会って、教会において祈り祈られる中で生きることができるのです。教会は上位と下位の階級制度、だれが偉いかによって構成されるのでも、会員数が少ないか多いか、若いか超高齢者かによって決まるのではありません。二人または三人がイエスの名によってイエス様と共に集い、二人または三人が心を合わせて祈り合う処に存在するのです。そして一人の人を得るために行動する処に存在します。日本社会では、人はイエス・キリストの処に来ようとしないし、まして、教会に来ようとしない人が圧倒的です。しかし、心の深い処ではイエス様の愛と祈り祈られる教会を求めているのです。そのような想いで、24日の特別集会や11月の子ども祝福式、世界祈祷週間、待降節、クリスマスに向かう日々を過ごしましょう。(松見俊)