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2021.10.13 「信仰者としての生き方」 Ⅰコリントの信徒への手紙4:14-21

1. 子どもとして諭す

 パウロは、コリントの人びとに対して「あなたがたは、私の愛する子どもであり、あなた方が間違えた道ではなく、キリストに従い生きるために諭しているのだ」と言います。パウロは高ぶるコリントの人びとを強く批判しました。(4:6,8)それは、コリントの教会が正しく歩み成長することを願っての言葉でした。

イスラエルの考え方として、子どもが正しい道を歩むために諭すのは、父親の役割とされていました。「若者の心には無知がつきものであり、そのような若者を諭し、魂を陰府から救うこと」(箴言3:11-1213:2419:1822:1523:13)が、父親の役割だと教えるのです。

現在の日本には、「児童虐待の防止等に関する法律」があります。子どもへの虐待として、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト、心理的虐待とあります。イスラエルの父親の役割は、「虐待」をしてよいということではなく、ネグレクト、その中でも「養育の放棄、拒否」をすることなく、子どもを愛し育てるという役割を示しているのです。

 

2. 信仰生活のモデルの必要性

「わたしに倣う者になりなさい」(16)注解書では、現代の読者にとってこのような言葉は「独占的で、横柄で、ぞっとする言葉」と言っています。この言葉を理解するためには、この時のコリントの教会の現実を見る必要があります。

現在の、私たちには聖書があります。当時のコリントの教会には新約聖書はありませんでした。またコリントの教会は異邦人の集まりの教会であり、律法・旧約聖書という、一つの大きな生きる指針があったわけでもありませんでした。また、私たちは、キリスト教会がこれまで歩んできた2000年以上の歴史を見ることができます。しかしコリントの教会も含めて当時のキリスト教会は生まれたてであり、どうすることがキリストに従うことなのかわからなかった。

当時のコリントの教会には、信仰者として生きるというモデルがなかった。そのためキリストに従う生き方、キリストに従う生活というモデルが必要だったのです。

このような現実を考えると「キリストに倣って生きる」一つのモデルを示すという意味で、「自分に倣う者になりなさい」ということは、コリントの教会の人びとにとっては必要なことだったのです。

 

3. 福音を表す者として生きている

パウロは信仰者の一つのモデルとして、テモテを送りました。テモテの仕事は、コリントの人びとに、言葉で正しく教えることよりも、キリストに結ばれた者としての生き方を示すことでした。

私たちは、「自分に倣うようになりなさい」と言うことができるでしょうか。今も多くの人がイエス様を信じるまでにかかわってくれた人、助けてくれた人、尊敬する人をモデルとしているのです。私たちは、自分を見て、キリストに倣って生きるということを観察している人がいるということも、覚えておく必要があります。

 

Ⅰコリント4:9-13。パウロは「わたしに倣うようになりなさい」と言いましたが、それは、自分は賢く、知恵ある者だとするコリントの人びとに、「弱い者」「虐げられる者」となりなさいと教えているのです。パウロは、「強い者」から「弱い者」になる姿を示し、自分が行いによって、義とされるのではなく、キリストの十字架を信じる信仰によって生きるということを示したのです。

 

4.  高ぶることのないように

 ここではパウロが来ないとみている者がいました。つまり、明らかにパウロの言葉や存在を否定し、新しい考えを持ち込んでいた人々がいたということです。(18)パウロは、そのような者たちに、知恵ある「言葉」「高ぶり」ではなく、神様の御業としての「力」「仕えること」ことを見せてもらうと語るのです。(19-20

2章ではこのようにも言いました。【2:4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。】(2:4-5

 パウロは、神の国は、言葉ではなく力にある。それは2章にあるように、知恵にあふれた言葉ではなく、霊と力、神の力にあると語ったのです。

 

5.  あなたがたが望むのはどちらか

 パウロは最後に、コリントの人びとに、その選択権を与えるのです。「あなたがたは、わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。どちらを望んでいますか」と問うのです。

 私たちは、どのような道を求めているでしょうか。キリストに従い生きるのか。それとも自分を誇り生きるのか。仕える者となるのか、それとも仕えられる者となるのか。もう一度問い直したいと思います。(笠井元)