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2021.10.17 「誘惑:神の愛を拒む道」(全文)  マタイによる福音書26:14-25

1:  ユダの裏切りの理由

 今日の箇所において、12弟子の1人イスカリオテのユダが、イエス様を裏切り、銀貨30枚で、イエス様を祭司長たちに引き渡すという約束をするのです。イスカリオテのユダは、イエス様を裏切りました。ユダがイエス様の裏切った理由は何だったのでしょうか。いくつか理由が考えられますが、1つには、15節でユダが「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(15)と聞いたことから、金銭的目的でイエス様を裏切ったと考えられます。ただ、19章において、12弟子の1人ペトロはイエス様に「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」(マタイ19:27)と言いました。つまり、イエス様の弟子たちはもともと、金銭目的で弟子になったわけではなかったのです。そのような意味では、イスカリオテのユダが今更、金銭目当てでイエス様を裏切っていったということは、なかなか考えにくいこととなります。

 もう1つ、これが1番よく考えられている理由となりますが、イスカリオテのユダがもともと求めていたメシア像から、イエス様がずれていったということです。もともとユダヤの民は、イスラエルの繁栄を築いたダビデのように、力強い王、権威的英雄としての救い主、ローマに支配されている自分たちを、解放してくれる権威者、力ある王を求めていたのです。しかし、現実のイエス様は、病気の人、罪人、子どもを受け入れ「小さな者となりなさい」と教えたのです。ユダは、その言動から、イエス様に失望した。そしてそのイエス様への失望が、積もり積もって、最終的に、ユダはイエス様を裏切っていったということです。この考えは、わりと多くの人々に支持された理由となっています。

 

 ただ、これらの考えはあくまでも推測、想像のなかでのもので、では実際にイスカリオテのユダがなぜイエス様を裏切ったのはなぜなのか、ということの明確な答えはわかっていません。今日の箇所で、ユダは、イエス様を祭司長に引き渡そうとしたのです。この「引き渡す」という言葉から、神学者カール・バルトは、ユダはイエス様を裏切るというほど、大きな行為をしようとは思っていなかった。ただイエス様を祭司長たちに「引き渡した」、それは別の言葉で言うと「委ねた」だけだと言います。そしてそれがイエスを殺そうと狙っていた祭司長たちの願いをかなえる行為となってしまったということです。このように考えるならば、このあと、イスカリオテのユダが、自分の行為の結果を受け入れられず自死してしまったということもよく理解できるのです。つまり、ユダは積極的にイエス様を裏切るという思いはなかったということです。

 

2:  心の隙間への誘惑

 ただ、これも推測の範囲であり、実際のユダの思いというのはわからないのです。

 エレミヤ書では、このように言います。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」(エレミヤ17:9)人の心の奥底にある闇を知ることはできない。よく「自分のことは自分がよくわかっている」と言いますが、むしろ、「自分こそ、自分をわかっていない」ものです。「人間は、自分自身のことを完全には理解できない」ものなのです。人間は、状況が変われば心も揺れ、変わっていきます。状況によっては「自分がそんなことをするはずはない」ということをしてしまうことがあるのです。このあとペトロは2633節、35節でこのように言いました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(26:33)「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(26:35) この時、この場面では、ペトロは本心からこのように言ったのでしょう。しかし、実際イエス様が十字架へと連れていかれるとき、ペトロは「わたしはあの人を知らない」と否定し、最後は「呪いの言葉」さえ言い出したのです。ペトロは恐怖という状況において、イエス様を裏切ったのです。この行為は、ペトロ自身、このような思いが自分の心の中にあったとは考えていなかった思いなのです。

私たちの心の奥底には、自分でも理解できない思いがあるのです。そしてその思いを揺さぶり、神様から離れるようにと勧めるのが誘惑であり、サタンの業なのです。「罪」とは、私たちの心の奥底にある隙間を、誘惑によって揺さぶられ、自分の思いを超えて行っていくこととも言うことができるのです。状況が変わる時、人間は自分の思いを超えた行動をとる時があります。例えばですが、宝くじや親の遺産などで予想していなかったお金が手に入れる時。突然、予想外の権力を手に入れた時。または友人に裏切られた時。自分よりも力を持っていないと思っていた後輩などが、自分よりも上の立場になる時。もう少し身近なことで言えば、喜びの時、怒りの時、お腹がすいた時、疲れた時、眠い時、それでも人間は、本来自分で「行いたい」と思っていることとは違うことをしてしまうことがあるのです。ユダも、イエス様を祭司長たちに引き渡すことが、まさかイエス様を十字架につけることになるとまでは考えていなかったのかもしれません。ただ心の中にある、小さな隙間、弱さをくすぐられ、行ってしまったことだったのかもしれません。私たちの心には、このユダと同じような、心の奥底にある、自分でも理解できないような思いがある。心の隙間があるのです。そしてそれが人間なのです。

 

3:  12弟子に入れられたユダ

 イスカリオテのユダは、イエス様を祭司長たちに引き渡しました。イエス様はこのようになることがわからなかったのでしょうか。「最近、ユダは少し変わったな」と感じることができなかったのでしょうか。それほど弟子たちには関心をもっていなかったのでしょうか。もっと言えば、イエス様は12人の弟子を選び出すときに、このユダの思いを知ることができなかったのでしょうか。イエス様には見る目がなかったのでしょうか。それとも、ユダがそのような者であると知っていながらも、自分で立ち返らせようと考えていたが、それが出来なかったのでしょうか。神の子であり、全てを支配される、全知全能の方イエス・キリストは、イスカリオテのユダの心の奥底にある思い、その小さな隙間の中まで知っておられました。 

つまり、イエス様は、このユダの心の奥底にある思いを知っていながら、それでもイスカリオテのユダを自らの12弟子の1人として選ばれたのです。これがイエス・キリストです。イエス・キリストは、そのようなイスカリオテのユダを自らの弟子として選びだし、共に行動し、共に食事をし、そして共に祈られたのです。イエス・キリストは、このユダを自らの弟子として愛されたのです。そして、同じように、私たちを愛されている。これがイエス・キリスト、私たちの主であり、神様の愛がここにあるのです。

 

4:  神様の選ばれた道

 イエス様は「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(26:24)と言われました。ユダの人生は、不幸な人生だったのでしょうか。それこそ、神様の御業のために、裏切る道を歩かされたとも言うことができます。ユダの人生は何だったのでしょうか。神様の救いの御業がなされるために、まるで捨て駒のように使われただけだったのでしょうか。私たちは、自分が「不幸だ」と思うときに、「なんで神様は自分をこのように造られたのだろうか。自分は神様からすれば必要のない者。自分は救いから外れているのではないか」と思うことがあるのではないでしょうか。しかし、覚えておきたいことは、イエス・キリストこそが、神様の救いの計画の中で、一番苦しまれた方なのです。イエス・キリストは、神様の計画のうちに、愛する弟子たちに裏切られました。それこそ、自分がこのあとどのようになるかを理解していながら「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(26:39)と祈りつつ、十字架への道を進まれたのです。誰よりも、まさに捨て駒のように捨てられたのは御子イエス・キリストです。この十字架の出来事において、傷つき、苦しんだのは、父なる神様なのです。神様は、御子イエス・キリストの死を持って、私たち人間を愛する道を選び取られたのです。これこそが、神様の計画、神様の選ばれた道です。つまり、自分自身が誰よりも苦しみに落ちていくなかで、すべての者を愛し、すべての者の苦しみを担われた。すべての者を、罪から、救いの道へと導かれたのです。

 

5:  ユダの選んだ道:神の愛を拒んだ道

 しかし、ユダは、このイエス・キリストによる神様の愛を受け入れなかったのです。この後ユダは、イエス・キリストの十字架という出来事を神様の愛として受け入れることができず、自死の道を選び取りました。ユダが、このイエス・キリストの十字架を受け入れていれば、ユダは、死ではなく、悔い改めの道を選び取ることができたかもしれません。しかし、ユダはその道を選びませんでした。ユダは悔い改める道、神の愛を受け取る道ではなく、自分の罪を、自分で背負っていこうとしたのです。これこそ本当の「神様への裏切り」と言うことができるのではないでしょうか。命を懸けて、人間を救い出そうと十字架にかかられたイエス・キリストの救いを受け入れないことこそ、神様への裏切り、そしてそれこそが本当の罪なのです。 

皆さんはどのような道を選び取るでしょうか。「自分は不幸だ、なんでこんなことが起こるのか」と思うとき、そのように心が揺さぶられるときにこそ、「自分は神様から見捨てられた」「自分の罪のためにこんなことが起こるのだ」と思うのではなく、イエス・キリストが私たちのために死んで下さったということを覚えたい。イエス・キリストの十字架を信じる道を選び取っていきたい、神様の愛を受け入れたいと思います。

 

6:  目を覚ましていなさい

 今日の箇所は、24章、25章、そして26章後半にある「目を覚ましていなさい」という言葉に挟まれてあります。イエス様は、私たちに「目を覚ましていなさい」と教えます。それは私たちの心を揺さぶる誘惑によって、神様を忘れてしまうことのないように、神様の救いの御業、イエス・キリストの十字架へといつも目を向けていなさいということです。26:41はこのように言いました。「誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。」(41)私たちが陥る最大の罪の道は、誘惑によって陥る、神の愛を拒否するという道です。誘惑とは、いつも人間がそのように、神様から離れることを狙っているのです。主の祈りでは、「私たちを誘惑にあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。目を覚ましていましょう。イエス・キリストは、確かに、私たちのために十字架の上で死なれ、そのことを通して、わたしたちの苦しみを担う方となられたのです。 私たちは、この神様の愛の御業を拒むことなく、忘れることなく、目を覚まして、受け取っていきたいと思います。(笠井元)