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2021.10.27 「共に悔い改め生きる」 Ⅰコリントの信徒への手紙5:1-13

1: 問題行動を誇る者たち

 今日の個所において、まず一つの具体的問題が指摘されます。それは、「父の妻をわがものとしている者がいた」ということです。このような行為は、旧約聖書(申命記27:20、レビ記18:8、20:11)において、明確に禁止されています。

ここでパウロは【異邦人の間にもないほどのみだらな行い】(1)と述べますが、ここでの「異邦人」とは、キリスト教教会外の人のことを意味しているとされます。ここでは、「教会外においてもないほどの行い」が教会で行われていたということ意味します。問題行動が、教会内で認められ、行われていたのです。

2節にそれにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。】(2)とあるように、コリントの教会は、問題行動を行った者、そしてそれを認める教会として「高ぶっていた」。問題ある行いを「社会習慣に囚われない行為」として「新しい自由」だと「誇っていた」のです。

 

2: 教会の問題として

 パウロは、コリントの教会に【むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。】(2)と言います。つまり、この問題は、そのような行動を行った一人の問題ではなく、それを高ぶる教会の問題としたのです。

 聖書では、旧約の時代から共に責任を担うという考えが根付いています。その一つとしては、ヨシュア記7章においてアカンという人物が、滅ぼし尽くし、献げるはずの戦利品を自分のものとして隠しとったという話があります。このことに対して、神様は、「イスラエルは罪を犯した」とします。一人の罪によって、イスラエル全体が、神様の前に罪を犯した民とされたのです。ここに共同体としての罪、共同体としての贖いという考えを見ることができるのです。

 キリスト教会は、キリストを土台とした信仰共同体です。だれも孤立していないのです。共に罪を背負い、共に苦しみを受ける者として歩むのです。「隣人を自分のように愛する」ということは、お互いを知るということであり、お互いに喜びも悲しみも罪も赦しも分かち合い担っていくことなのです。

 

3: パウロとコリントの教会 

 パウロは【わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。】(3)と言いました。つまり、パウロは「自分は離れていても、主イエスの名によって、主イエスの力をもって、集まった信仰共同体として、教会と自分は共にある」とします。

 5節にある「肉の滅び」、そして「霊の救い」となると、「霊肉二元論」に陥ることがあります。つまり「肉は汚れ」「霊は清い」という考えです。このことには注意すべきです。ここで、パウロはそのようなことが言いたいわけではありません。

この文章は、「そのような男は肉体(悪事)の滅びのためにサタンに引き渡しなさい。そうすれば主の日に(共同体にある)霊は救われるであろう。」と読むことが勧められています。

ガラテヤ書ではこのように言われます。【キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。】(ガラテヤ5:24-25

 

4: 一つのパン 悔い改め

ここでは、この教会全体の問題とすることを、「一つのパン」としてのイメージとして語ります。「古いパン種」を取り除きなさい。つまり、教会として、お互いの行為を確認し、悔い改めるようにしなさいということです。

 8節では、【パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか】(8)と言います。私たちは誰もが罪人です。そして、そのような罪人のために、キリストが【過越の小羊として屠られた】(7)のです。私たちは、ただこのキリストの血によって、純粋で真実のパンとされるのです。教会の目指すところは、信仰にある兄弟姉妹として、「罪」を共に悔い改めて生きることです

 

5: この世にある教会

9節では「以前の手紙」とありますが、パウロはⅠコリントの手紙前に、コリントに手紙を送っていたのです。そこでパウロは【みだらな者と交際してはいけない】(9)と書きました。パウロは私たち教会はこの世に生きることを教えます。この世において「神を愛し、隣人を自分のように愛して生きる」という思いを持ち続けて、この世に神様の愛の光を放ち続けるのです。

 教会の福音伝道はこの世においては簡単ではありません。それはこの世と教会は相反する存在だからです。教会も、自分自身を含めもちろん罪を犯す人の集まりです。「そのような行為を犯すものをすべて締め出しなさい」と言ったら、教会にはだれもいなくなってしまうでしょう。そうではなく、「悔い改めて、もう一度歩き出すように」教えているのです。

 

6: 寛容と無関心

最期に「寛容」と「無関心」ということを見ていきたいと思います。私たちの教会は信仰共同体として歩んでいるでしょうか。2節では【それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。】(2)と言います。

パウロはコリントの教会に「悲しんででも、その者を除外すべきではなかったのか」と教えます。「寛容」であると考えるところから、実のところ「自分が傷つきたくない」「無関心」という考えに陥ってしまっていることがあります。隣人の間違いを見過ごすことは、「寛容」「やさしさ」ではなく「無関心」に歩んでしまっているのです。

 

私たちは、お互いに傷つくことを恐れてしまいます。しかし、私たちは隣人の罪を自分の痛みとして受け取り悔い改めることへと共に歩む道を選び取っていきたいと思います。(笠井元)