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2021.10.31 「神を尋ね求めよ」(全文)  エレミヤ書2:4-13

1:  特別伝道集会から

 先週は、特別伝道集会を持つことができました。昨年は、特別伝道集会は、新型コロナウイルスの感染が拡大する中で、中止することとなりました。今年は、例年のように、多くの人々にチラシを配り、声をかけて、また、幼稚園の園児や保護者の皆さんを迎えての形ではありませんが、講師の麦野先生を迎えて、豊かな集会を持つことができたことを感謝したいと思います。今回の特別伝道集会は、皆さんにとってはどのような時となったでしょうか。 

特別伝道集会というは、名前の通り、基本的目的は伝道です。それこそ、新しい方に、教会へ足を運び、イエス・キリストによる神様の愛に触れていただきたいと思うのです。皆さんの中にも、この特別伝道集会から、神様の愛に出会っていったという方もおられるのではないでしょうか。 また、すでにキリストに出会い、救いを得た者としては、伝道するということ、一つの魂が救いを得ることの尊さ、神様のために働くこと、祈ることを覚えさせられます。また、この集会を通して、自らも心を新しくされ、もう一度、神様に出会う時ともなりますし、神様に出会った者として、どのように生きていくのかを考えさせられる時ともなるでしょう。私自身も、特別伝道集会では、自分が神様に従うこと、伝道すること、一人でも多くの人がイエス様に出会うために、自分に何ができるかを何度も考えさせられました。 

 今日の箇所で、イスラエルの人々は「主はどこにおられるのか」と尋ねることすらしなかったとされるのです。私たちは、喜びの時、悲しみの時、目の前に困難がある時に、「神様、助けてください」と祈ることが出来ているでしょうか。どのような時にあっても「主はどこにおられるのか」と、私たちは神様を求めているでしょうか。私たちが神様に目を向け、助けを求める時、神様は、必ず私たちを助けて下さるのです。むしろ、神様はいつも私たちを助けて下さっている。私たちが神様に助けを求める時に、そのことに気づかされていくと言った方がよいかもしれません。たとえ、私たちが死の淵にあろうとも、主イエス・キリストが共にいて下さるのです。

特別伝道集会とは、そのような、神様に目を向け、神様の愛を求める時でもあります。今日は、このエレミヤ書から、先週から続いて、今一度、心を新しくされ、神様を尋ね求めることの大切さを学んでいきたいと思います。

 

2:  イスラエルの二つの悪

 今日の最後13節において、このように言われます。【2:13 まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを。】(エレミヤ2:13)イスラエルの民は二つの悪を行ったとされます。二つの悪。その一つは「生ける水の源である神様を捨てた」ということです。

イエス様はヨハネによる福音書において、【4:13「この水を飲む者はだれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」】(ヨハネ4:13-14)と言われました。渇くことのない、永遠の命に至る水。その心の底から湧き続ける水、つまり、イスラエルをエジプトから救い出した神様。この世を創り、今も養われ、私たちを愛し続けて下さっている神様をイスラエルの人々は捨てたのでした。

もう一つは、「無用の水溜めを掘った」とあります。イスラエルの人々は、永遠に湧き出る水ではなく、水をためることはできない、壊れた水溜、つまり、本当の神様ではなく、8節ではバアルとありますが、イスラエルをエジプトから救い出した神様ではない神様、それこそ、自分のために都合の良い神様を求めたのでした。

この二つの悪を行う者。それは、イスラエルの人々が特別であったということではなく、このような悪、罪に陥ってしまうのが、私たち人間の姿であることを教えているのです。

 

神様は、6節にもあるように、イスラエルの民が奴隷としてエジプトに置かれていた時、その姿を憐れみ、そこから救い出して下さったのです。エジプトでは、奴隷として、その子どもは無差別に殺されるようにまでなり、もはや人間として扱われない状態となっていたのでした。そのようなイスラエルの民を神様は憐れんでくださったのです。出エジプト記ではこのように記されています。【2:23 イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。2:24 神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 2:25 神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。】(エジプト2:23-25

イスラエルは神様に助けを求め、うめき、嘆き、叫んだのです。そしてその叫びは神様に届いたのです。神様はその嘆きを聞き、顧み、御心に留められたのです。神様はイスラエルの民を顧みてくださり、エジプトから救い出し、十戒を与え、救いの契約を与えられ、7節にあるように、実り豊かな地に導かれたのです。しかし、そのような約束の地に導かれたイスラエルの民は、自分たちを救い出した神様を忘れていった。つまり、【生ける水の源であるわたしを捨て】(13)たのです。

 

3:  豊かな時に何を求めるのか

私たちは、困難にあるときには、「神様、どうしてですか」「神様どこにおられるのですか」と求めることがあります。それこそ、もはや人間の手ではどうすることもできないような苦しみの中でのほうが「神様、助けてください」と祈り求めることができるかもしれません。イスラエルの民は、エジプトで奴隷とされる中で神様に助けを叫んだのでした。しかし、その困難から抜け出すと、神様を必要としなくなってしまったのでした。神様はイスラエルの嘆きを聞き、憐み、エジプトから救い出し、豊かな地に導かれたのです。しかし、イスラエルの民は、神様によって豊かにされたにもかかわらず、そのとき、「自分は一人で生きていける」と、「神様などは必要ない」と考えるようになり、神様を求めなくなったのでした。

何不自由ない者が神様を求めるでしょうか。人間は豊かになった時。本当に大切なものが何なのかを忘れてしまうことがあるのです。ルカによる福音書12章では、このように言います。【12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。 12:20 しかし神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われた。12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」】(ルカ12:19-21

皆さんにとって本当に大切なものとは何でしょうか。考えてみてください。お金でしょうか。自分の持つ大切な宝物でしょうか。名誉や権力、知恵、知識でしょうか。健康でしょうか。家族、友人でしょうか。それとも命でしょうか。

 

4:  命を求めるとは・・・

現在、日本では落ち着いてきましたが、新型コロナウイルスという感染症が、私たちを不安や絶望に陥れてきました。このような中、人間がしたことは、マスクをすることから始まり、人間同士に距離をとること、新たに病院を作ること、インターネットでの会議、ワクチン接種、特効薬の発明等々です。これらが、悪いとは思いません。人間の知恵です。ただ、この中で私たち人間は、何を求めたのでしょうか。それは、「健康」であり、「生きる」ことであり、「命」です。もちろん命を求めることはとても大切です。何よりも命を大切にしても、何も悪いことはないでしょう。では、「命」とは、「生きるということ」はどのようなことを意味するのでしょうか。

イエス様は悪魔に誘惑される中で、このように言われました。【4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」】(マタイ4:3-4)私たちにとっての命とは、ただパンを得て、生きているということではないのです。「神の口から出る、一つ一つの言葉で生きる」のです。つまり、神様からのみ言葉を受け取って、神様の愛を受けてこそ、本当に生きることとなるのです。

 

5:  神を尋ね求める

愛の反対の言葉は「孤独」と言われています。どれほど財産や権力をもっていても、孤独である時、人間の心は満たされることはないのです。私は、新型コロナウイルスの感染が拡大する中で、いつも、何かよくわからない苦しさに襲われています。それは、もちろん不安もあったと思うのですが、何よりも、多くの人と会うことが制限されていること、このことが一番心を苦しめているのではないかと思うのです。気楽に「一緒に礼拝しましょう」「一緒に祈りましょう」「ぜひ、教会に来て下さい」と言うことができない。病院に入院している方、ホームに入所している方に「そちらに行きます」と会いに行くことができない。なんとなく、ただ生きている。ただ時間だけが過ぎていく。生きていることの虚しさ、焦りを感じるのです。

 今日の箇所では、5節では「お前たちの先祖」と言い、7、9節では「お前たち」と言い、9節では「お前たちの子孫」という言葉を見るのです。この時、エレミヤが語った言葉は、過去、現在、未来、そして世の終わりにまで目を向けての言葉となるのです。それはこの言葉を語る、神様が過去、現在、未来、そして最後の時を治めておられる方、時間を越え、空間を越えておられる方であることを教えるのです。

 私が、「主はどこにおられるのか」「神様助けてください」と求める中で頂いた一つの答えは、「焦らず」「命の主に委ねなさい」ということです。この教会、兄弟姉妹を神様が守ってくださる。私はただ神様に委ね、今、自分のできることをすればよいということでした。「主はどこにおられるのか」。イスラエルの民は、神様を求めることを忘れてしまい、全く別のものを求めてしまったのです。そこでは「争い」が生まれ「滅び」へと向かっていったのです。結果イスラエルはバビロニアに滅ぼされていくこととなるのです。

皆さんは今、何を求めているでしょうか。今日の箇所は、私たちに「神様、あなたは今、どこにおられるのですか」「神様、助けてください」と、困難の時も、豊かにされた時も、どのような時にあっても、神様を尋ね求めることを忘れないようにと教えるのです。神様は、私たちのところにイエス・キリストを送ってくださいました。私たちがイエス・キリストを信じて、共に生きる時、そこに神がおられるのです。私たちはただ、イエス・キリストを信じ、主を尋ね求めたいと思います。(笠井元)