1: 日々食事を共になされた方
今日の箇所は、イエス様が主の晩餐を制定された箇所となります。これまでイエス様は、毎日多くの人々と食事をされてきました。それこそ弟子たちとは常に共に食事をしていたでしょう。それだけではなく、イエス様の論敵ともなっていた、ファリサイ派や律法学者たち、そして、いわゆる罪人とされていた人々、取税人といった人々とも、イエス様は共に食事をされてきたのです。イエス様は、いつも人間として日常の生活を共に送り、共に生きてくださったのです。
現在、朝の祈祷会ではヨハネの手紙第一から学んでいます。ヨハネの手紙第一は、このように語られて始まります。1章1節の言葉ですが【1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。】(Ⅰヨハネ1:1)。ヨハネの手紙第一は、このような言葉から始まるのです。ここでは「命の言葉」、イエス・キリストを、「聞いたもの」「目で見たもの」「手で触れたもの」として伝えると語るのです。ただ、ヨハネの手紙が書かれた時代は、イエス様が復活し、天に昇られてから、すでに70年以上後のことと考えられていますので、実際にイエス様を直接見た弟子たちが書いたとは考えにくい手紙とされています。それでも、ここで「わたしたちが、見て、聞いて、触れた、命の言、イエス・キリストを伝える」と言います。
そのことを、朝の祈祷会の学びの中では「使徒たちの証言」を受けて、自分の証言として継承し伝えている。五感でとらえることはできなくても、実際に見たこと、聞いたこと、触れたことのない者でありながらも、イエス・キリストが、「事実、この世に来られ、今も共に生きている方」「私たちと同じ肉をとり、人となり、関わってくださっている」という信仰のうちに、語られた言葉と学んだのでした。主イエス・キリストは、弟子たちと、そして多くの人々と毎日一緒に食事をなされたのです。そして同じように、今も、私たち共に生きておられるのです。
イエス様はいつも、共にいてくださるのです。それは何か特別な時、特別な日に私たちのところに来てくださるわけではないのです。どんな時も一緒にいてくださる。それは私たちがどのような思いの中でも、共にいてくださり、その心の内も知っていてくださるということでもあります。
こどもさんびかには「祈ってごらんよわかるから」という賛美があります。この賛美の歌詞の一部を紹介します。「君は神様にね、話したことあるかい。心にあるままをうちあけて。天の神様はね、君のこと何でも、わかっておられるんだ、何でもね。」先日、私がなんとなくですが、この賛美を口ずさんでいましたら、息子から「ほんとになんでも知っているの?」「こわっ」と言われました。幼稚園の園児くらいの年齢だと「イエス様は自分のことを何でも知ってくださっている」ことを素直に「嬉しい」と思うものなのですが、少し大きくなってくると、それが「怖い」と感じるようになります。自分の心を隅から隅まで知られていることの怖さ。それは一つの成長だと思いますので、息子がそのように言ったときは、少し嬉しくも感じました。
皆さんは心の隅から隅まで知られることをどのように感じるでしょうか。それこそ、人間には「自分のことを知ってほしい」「理解してほしい」という欲求もあります。ただ、本当のところを言えば、「自分のすべては知られたくない」「人には言えない思い」もあるものなのではないでしょうか。
神である、イエス・キリストは私たちのすべてを知っており、その良い思いも、闇のような思いも、すべてを知り、そのうえで、私たちを愛してくださっています。それこそ、どの様な思いを持っていたとしても、今日の箇所の前を読むならば、心の中でイエス様を裏切ることを決心していたイスカリオテのユダの心も知っていた。そのうえで、ユダを弟子として、共に食事をしたのです。イエス様は。すべての者を食卓に招いてくださっているのです。私たちはまず、このイエス・キリストの恵み、招きを受け取りたいと思います。
2: 過越の食事の中で制定された
そのうえで、この今日の箇所において、イエス様は「主の晩餐」を制定されました。この食事は、過越の食事の時でした。過越祭とは、エジプトにおいて奴隷という立場にあったイスラエルの民が、その奴隷という苦しい状態から解放されたことを覚える時でした。イスラエルの民は、神様の御業によって、エジプトの奴隷という立場から解放されたのです。この神様の恵みを忘れることなく、信仰を継承するために、この過越祭があり、その食事があったのです。今日の箇所は、26節、「一同が食事をしているとき」と始まります。この言葉は、21節にもまったく同じ言葉が出てきます。この時、イエス様たちは過越の食事をいただいていたのです。
23節では、「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が」(26:23)とありますが、鉢に食べ物を浸すという行為は、エジプトの奴隷状態から逃げ出すときに、海を渡ったことを覚えるため、塩水に野菜を浸したのでした。つまり、食べ物を鉢で浸すことは、エジプトから解放されたときの、大きな奇跡の一つ、イスラエルの民の目の前にあった海が分かたれ、そこに乾いた地が現れた。
そしてイスラエルの民はエジプトの追っ手から逃げることができたのです。この神様の救いの業を覚えるために、人々は、食べ物を鉢で浸したのでした。
同じように、今日の箇所での、イエス様がパンを取り、賛美の祈りを唱えた行為も、イスラエルがエジプトから逃れた時のことを思い起こす行為でした。イスラエルの民は、エジプトの追っ手が来る中で、急いで逃げるために、種を入れないパンを持って逃げ出したのです。本来イスラエルの民の過越の食事では、このことを思い起こすためにパンを取って祈ったのでした。そのように考えるならば、本来語るべきことは「これは、イスラエルがエジプトから救い出されたときに食べたパンです。このパンを食することで、神様の救いの御業を思い起こしましょう」といった言葉を言うはずのものかもしれません。しかし、ここでイエス様は「取って食べなさい。これはわたしの体である」(26:26)と言われたのです。この言葉は、弟子たちからすれば、想像もつかない大きな驚きの言葉であったのです。
そして次に、イエス様は杯を取り祈ります。この杯の血。これはまさに過越の食事の中心と言ってもよい行為です。出エジプトの時、神様の大きな救いの奇跡として、エジプトにいる人間、動物のありとあらゆるものの長子を撃たれたのでした。そのような中で神様は、イスラエルの民だけは、その御業を過ぎ越されてくださったのです。神様の御業が過ぎ越すための徴として、神様はイスラエルに、その鴨居に小羊の血を塗るように命令されたのです。この小羊の血によって、イスラエルの民の長子は撃たれることなく、過ぎ越されたのでした。このことを通して、エジプトのファラオは、イスラエルの民を奴隷から解放したのでした。イエス様は、この杯をもって【「皆、この杯から飲みなさい。26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」】(26:27-28)と言われたのです。
このように、イエス様は、そのパンを食し、杯からぶどう酒を頂く中で、本来、出エジプトによる神様の救いの御業を覚えるということから、ここでは、むしろ、これから起こる、イエス・キリストによる罪からの救いを覚え、忘れることのないように、主の晩餐を制定されたのでした。 イエス・キリストは、この後、十字架の上で、その体は裂かれ、その血が流されることとなるのです。この神の子、イエス・キリストの人間としての十字架の上での死による贖いを、私たちが忘れることなく、その信仰を継承してくための行為として示された。それがイエス様のイエス様による主の晩餐なのです。
3: 神の国を待ち望みつつ
イエス様は29節においてこのように言われました。【26:29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」】(26:29)今日の主の晩餐の制定の言葉は、ある意味、イエス様の弟子たちへの別れの言葉と言うことができるでしょう。しかし、この別れは、完全な最後の別れではないのです。イエス様は「父の国で、共に新たに飲むとき」が来ることを語られているのです。主の晩餐式は、確かに、イエス・キリストの十字架における死。その裂かれた体と流された血を思い起こすときであり、その体と血によって、与えられた神様の救いの出来事を思い起こす時です。
ただ、今日のこの言葉から学ぶことは、この神様の救いは、ただ思い起こすだけのものではなく、今、このときに、確かに共にいて下さるイエス・キリストの恵みを受け取るということ、そして、いずれ来られる再臨の希望を待ち望むということでもあることを学ぶのです。主イエス・キリストは再び来られる。それは神の国の到来。神様の愛の完成の時として、イエス・キリストは来てくださるのです。 主の祈りでは、「天にまします我らの父よ、願わくは、み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。みこころの天に成るごとく、地にも成させたまえ。」と祈ります。
「み国を来たらせたまえ」。私たちは、今日、これから主の晩餐式を行います。この時、イエス・キリストが十字架の上において引き裂かれた体と、流された血による神様の救い、その贖いの御業を覚えたいと思います。そして、それと同時に、新しい命の創造の出来事としての復活と、いずれ来られるイエス・キリスト、神の国、神様の溢れる愛の完成の時の到来を信じて、希望を頂きたいと思います。(笠井元)