1: 日々食事を共になされた方
イエス様は、毎日多くの人々と食事をしてきました。イエス様はいつも人間の日常の生活を共に送り、共に生きてくださったのです。そして同じように、今も、私たちと共に生きておられるのです。どんな時も一緒にいてくださる。それは私たちがどんな思いの中にいたとしても、いつも共にいてくださり、その心の内も知っていてくださるということでもあります。皆さんは心の隅から隅まで知られることをどのように感じるでしょうか。それこそ「自分のことを知ってほしい」という欲求もあれば、「自分のすべては知られたくない」という思いもあるのではないでしょうか。イエス様は、すべてを知りながら、すべての者を食卓に招いてくださっているのです。
2: 過越の食事の中で制定された
過越祭とは、エジプトにおいて奴隷という立場にあったイスラエルの民が解放されたことを覚える時でした。23節にある鉢に食べ物を浸すという行為は、逃げ出すときに海を渡ったことを覚えるための行為でした。パンを取り、賛美の祈りを唱えるという行為は、急いで逃げるために種を入れないパンを持って逃げ出したことを覚えるための行為でした。杯を取り祈るという行為は、神様はその御業が過ぎ越すための徴としてイスラエルの家の鴨居に小羊の血を塗るように命令されこと、小羊の血によって、イスラエルの民の長子は撃たれることなく、過ぎ越されたことを覚える行為でした。イエス様は、これから起こる、イエス・キリストによる罪からの救い、十字架と復活の出来事を覚えるため、主の晩餐を制定されたのでした。
3: 神の国を待ち望みつつ
主の晩餐の制定の言葉は、イエス様の弟子たちへの別れの言葉と言うことができるでしょう。しかし、この別れは、完全な最後の別れではないのです。イエス様は「父の国で、共に新たに飲むとき」が来ることを語られているのです。神様の救いは、ただ思い起こすだけのものではなく、今、このときに、確かに共にいて下さるイエス・キリストの恵みを受け取るということ、そして、いずれ来られる再臨の希望を待ち望むということでもあるのです。主イエス・キリストは再び来られる。神の国の到来。イエス・キリストは神様の愛の完成の時に来てくださるのです。(笠井元)