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2021.11.10 「神の霊に洗われた者として歩む」 Ⅰコリントの信徒への手紙6:1-11

1: 不正な訴訟

コリント教会の内部で起きた訴訟問題について語られます。パウロはコリントにおけるこの訴訟の問題において強い憤りを感じていました。パウロは、【聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。】(6:1)と訴えます。

 「なぜするのです」は「あえてする」とも訳せる言葉で、パウロは、教会内で解決できるはずのことを、なぜあえて外に持ち出すのかと尋ねているのです。W.バークレーは、元来ギリシア人は訴訟が好きで、「訴訟を起こすということは、ギリシア人の生活の不可欠の要素であった」とも言っています。それに対し、ユダヤでは、基本は自分たちの問題を異邦人の法廷に持ち出すことのではなく、ユダヤのサンヘドリン(最高法院)において裁きを行ったのです。この時点で、コリントの教会の人々と、ユダヤ人であるパウロの感覚は違ったのかもしれません。

 当時の裁判は、基本的には身分の高い人が利益を得るためにあったようなものでした。裕福な者、権力のある人々が、貧しい者、力のない者に対して訴訟を起こして利益を得ていたのです。だからこそ、パウロは強く憤っていたのです。

 

2: 聖なるものたちが世を裁く

 パウロは2節でイエス・キリストによって召されたキリスト者が世を裁くと言います。この「裁き」には「治める」という意味もあり、裁き主イエス・キリストがこの世を治めている、共にキリスト者が世を治める者としているのです。そのキリスト者が、自分たちの利益のために、不正に行われるこの世の法廷に訴え出たことをパウロは憤り、悲しんだのです。3節では、「天使たちさえ裁く者」とされますが、それだけ大きな役割と責任と力を頂いているキリスト者が、なぜ「日常の生活にかかわることを裁けないのか」と嘆いているのです。

 

パウロは4節で【教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。】(6:4)と尋ねます。この言葉は、口語訳では【教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。】(6:4)となっています。

口語訳の訳だと、裁判の席とは「裁判官」なのか「訴える者」なのか「弁護士」なのか「被告人」なのかがはっきりしません。これまでは「教会で軽んじている人たち」を「教会内の貧しい人たち」とし「裁判の席」を「被告人の席」と解釈されてきました。

新共同訳では「裁判の席」を「裁判官の席」と限定しています。「教会では疎んじられている人たち」は「信仰を持たない世の人」となります。新共同訳から読み取るならば、パウロは、教会内で裁きが行われることを望んでいるのです。

3: 信仰の敗北  不正を耐え忍ぶ

6節~7節においてパウロは【兄弟が兄弟を訴える】(6:6)こと、争い、お互いを貶める行為を行うこと自体を非難し、そのこと自体が、教会としての信仰の敗北を意味していると言います。7節でパウロは【なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。】(6:7)と言います。この「不義」とは「正義」に否定語がついた形となっており、フランシスコ会訳、新改訳では「不正」と訳しています。フランシスコ会訳では「むしろ、不正を耐えしのばないのですか」と訳します。

パウロは、9章19節からの箇所で【わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。】(9:19)【弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。】(9:22)と言います。

主イエス・キリストの十字架は、裁判官として人間を裁く方が、罪人として裁かれた出来事です。イエス・キリストご自身が、「不義」を甘んじて受けられたのです。そしてこのイエス・キリストの十字架こそが、「神の知恵」「神の救い」なのです。

コリントの人々は、自分の知恵による正しさを主張したのです。しかしそこには分裂しか生まれませんでした。パウロは、それを信仰の敗北とし、神の知恵に生きることを求めたのです。

 

4: 神の霊によって洗われた者として歩む

9-10では罪が具体的に述べられます。【みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者】6:9-10このようなことは5章11節にも記されていました。【あなたがたの中にはそのような者もいました。】(6:11)とあるように、実際このようなことをしている人たちがコリントの教会にいたのでしょう。

11節で【しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。】(6:11)と教えます。

このような罪におぼれていたコリントの人々が、主イエス・キリストの名と神の霊によって、洗われたのです。イエス・キリストによって、新しく命を受けて聖なる者、義なる者とされたのです。本来ならば、「正しくない者」であり「神の国を受け継ぐ」ことのできない人々を、神様はイエス・キリストによって洗われ、選び出されたのでした。

 

「神の国を受け継ぐ者」「神の霊によって洗われた」「主の名によって、聖なる者とされた」。だから、イエス・キリストに従って、兄弟姉妹として、お互いを傷つけあうこと、裁き合うことではなく、和解の道へと歩みなさいと教えるのです。