今年度の主題聖句は、今日読みました聖書の中のローマ5章3節~5節の箇所「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(ローマ5:3-5)というみ言葉となります。今日の説教題は、今年度の標語から取りました。昨年度から続く、新型コロナウイルスの感染拡大という苦難のなかにあって、そのような現実の中でも、神様の恵みの下に留まることを覚え続けるために選び取りました。神様はどのような時にあっても、私たちを愛し、その恵みで包んでくださっています。しかし、私たちは大きな困難が立ちはだかる中で、この神様の恵みを忘れてしまうことがあるのです。そして、だからこそ、この新型コロナウイルスの感染拡大という現実、困難の日々の中で、神様の恵みに留まり続けていきたい。それは、私たちは、ただ一人で生きているのではないということ、まずイエス・キリストが必ず私たちと共にいてくださること、どれほどの困難の中にあったとしても、イエス・キリストが共にいてくださること、神様が愛してくださっているということ、この神様の恵みは変わることは、決してないということ。そして私たちには、祈り合う兄弟姉妹がいるということを覚えていきたいと思うのです。
1: 困難を見落とさない
現在は少し落ち着いていますが、私たちは、新型コロナウイルスの感染拡大という大きな困難の中にあります。このような大きな困難に向かい合っている時に、私たちは、神様の恵みを忘れてしまうことがある。それは一つに、それぞれの日々の生活の中で起きている小さな困難に目を向けず、その一つ一つの困難や苦しみを、慰め、癒してくださっている神様の恵みを忘れてしまうということでもあり、またそのような小さな困難を兄弟姉妹と、共有するということを忘れてしまうことがあるといいうことでもあります。私たちは毎日、一分一秒という時間、その瞬間、瞬間を生きているのです。そして、そこには小さな苦しみがあれば、そこに神様の愛が注がれているのでもあります。ただ、それは、新型コロナウイルスの感染の拡大という大きな困難に生きる中では、他者から見れば、小さなことに見えるかもしれないことがある。しかし、自分自身にとってはとても大きな出来事であり、困難であることがあるのです。職場や学校での人間関係のトラブル、病気や心の痛み、それこそ他人から見れば小さなことかもしれない問題、それでも本当は、その人にとっては、苦しくて、息ができないような問題がある。そのような苦しみの中「そのようなことは、新型コロナウイルスの感染拡大ということに比べれば、小さなものだ」と・・・相談をすることができなくなってしまう。そのように困難の共有をすることができなくなってしまうことがあるのです。
もう20年以上も前になりますが、私が神学校で学んでいた頃でした。学校の後輩から、彼の知り合いが自死をしたという連絡がありました。その前の日に、その方から電話があり、何か言いたそうだったのですが、私の後輩は、ちょうどその時、忙しかったので、「また今度、明日聞くから」と言って電話を切ったそうです。そして次の日、連絡をしてみると、自死されたと聞いたということでした。後輩は、この出来事から、どうしても自分を赦すことができなくなってしまった。どうしてあの時、きちんと聞かなかったのだろうと、私に連絡してきたのです。自分は、あの時、その方の問題を軽く見てしまった。自分の目の前にある忙しさや問題を解決することを選んでしまったと、悔やみ、自分を責め続けてしまうことになってしまったのでした。
私たちは今、世界中が、新型コロナウイルスの感染拡大という大きな困難の中にあります。このような時私たちは、それ以外の困難を忘れてしまうことがあるのです。このような時だからこそ、目の前にある困難によって、どれほど隣人が苦しんでいるのか、そしてまた自分自身もどれほど傷ついているのか、そしてその困難、苦しみのなかに、イエス・キリストがきてくださることを、見落とすことのないようにしたいと思います。
2: 苦難が生みだすもの
聖書は「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(ローマ5:3-5)と言います。宗教改革者のルターは、この言葉について、このように教えています。「患難から希望に至る階段は、地上的に自明の事柄ではないのである。すなわち患難は焦燥を生み出し、焦燥は、強情を生み出し、強情は絶望を生みだす。」つまり、「この聖書の、み言葉は当たり前の言葉ではない。むしろ、苦しみや困難というものは、本来、そのままでは、焦りや、苛立ちを生み出し、焦りやいら立ちは、頑固や強情を生み出し、そのような時、最後は希望ではなく、絶望を生み出す」ということです。
宗教改革者であるルターの働きは、プロテスタントという教派を生みだしていくことになりました。このルターの苦しみ、痛みは大変なものだったでしょう。まさに、苦しみ、その中で、焦りが生まれ、そして、そこに強情、そして絶望が、生まれていった。そのような日々だったのでしょう。
ルターの宗教改革の運動の中での一つのエピソードとして、このような話があります。ある時、ルターは宗教改革における激しい迫害のため、希望を失いかけていたのです。そのとき、妻のカタリーナがルターの書斎に喪服を着て入ってきたのです。ルターが「誰が亡くなったのか」と尋ねると、妻カタリーナは「神様です」と答えたのでした。ルターは「神様が死ぬなんて、そんなことはありえない」と言うのですが、そのルターにカタリーナは「もし私たちの神様が生きておられるならば、なぜあなたはそんなに失望されているのですか。私たちは生ける神様の御力にすがっていきましょう」とルターを励ましたそうです。
ルターと言えば、宗教改革の運動の中心人物であり、強い信仰を持ち、歩み続けたというようなイメージがあります。しかし、ルターも困難の中では、希望を失いかけていた。そのようなルターだからこそ、この聖書の言葉を受け取るときに、「地上では、困難・艱難は、苦しみであり、苦難が生むものは、本来、焦燥と強情、そして絶望だと。それが人間の姿だ」と実感として感じていたのでしょう。
3: 差し伸べられた神の手
そのような私たちに聖書は、ただ神の恵み、神様の愛に留まり続けること。自分の力ではなく、神様に委ねて生きることを教えているのです。今日の箇所は続けて、このように言います。【5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。】(5:6-8)
本当の困難というものは、私たちが自分の力で這い上がれるようなものではないのです。誰かに助けてもらうしかない。それなのに、誰かに手を差し伸べてほしいと願いながらも、もはやそう叫ぶこともできない。苦しい。生きることができない。希望が見えない。このような困難の中に、イエス・キリストは来てくださったのです。そして、キリストは、命を懸けて、私たちに手を差し伸べ、私たちを救いと恵みへと導いてくださったのです。それがイエス・キリストの十字架、キリストの死です。この十字架の上で、神様は私たちの困難に手を指しのべてくださる者となられた。そこに、愛を表されたのでした。私たちが苦難に出会う中、イエス・キリストは私たちと共にいてくださり、私たちに生きる希望を与える道を切り開いてくださったのです。キリストの十字架による愛に留まる道、それが、私たちの持つべき忍耐の道であり、それは、私たちの希望の道、神様の恵みの道なのです。
苦難に出会う中、私たちは、ストレスを感じ、焦り、苛立ち、頑固になり、強情になり、絶望へと、落ちていきます。それは、イエス・キリストが共にいることから、離れてしまっていくということです。心の扉を閉じて、「私は自分一人だ」と、「誰にも理解されない」と、孤独という絶望へと向かっていくことなのです。しかし、その私たちの苦しみの中、そして痛みの中に、イエス・キリストは来て下さるのです。私たちが「一人ぼっち」だと感じているときに、イエス・キリストは、私たちを支えて下さっているのです。他のだれ一人として知ることのない痛み。自分でも、確実にはとらえていない、もはや、自分でもよくわからなくなってしまっているような時、そのような心の痛みを、イエス・キリストは捉えていて下さるのです。
4: キリストの祈りに支えられて
9節から、キリストの死によって、私たちは神様と和解させていただいたとあるのです。私たちは、キリストを通して、神様と和解させられました。この和解は、不信心な者、罪人であった時に、すでに与えられた、恵みです。信じることができない、そのような私たちのために、主は、すでに和解をして下さっています。そして私たちは、義とされているのです。苦しみの中、困難の中、イエス・キリストは、いつも、私たちのために、執り成しの祈りを祈ってくださっているのです。それは、十字架という命をかけた祈りです。私たちが困難の続く中にあって歩むとき、イエス・キリストは共にその苦しみを担い、祈り続けて下さっているのです。私たちは、このイエス・キリストの十字架という命を懸けた祈りによって、恵みに導かれていることを覚えたいと思います。
すでに、和解の出来事・神様の愛の出来事は起こされたのです。私たちの困難は希望へと変えられるのです。その道は開かれているのです。私たちは、この神様の恵みに留まり続けたいと思います。ただイエス・キリストの十字架と復活に希望を持ち、委ねて歩んでいきたいと思います。ただ、主の十字架に、目を向けて、主の復活の御業に目を向けて、そして、祈りを受け取って歩んでいきましょう。(笠井元)