1: 神の子として
今日は子ども祝福礼拝です。皆が神様に守られ、祝福のうちに、ここまで大きく成長できたことを感謝したいと思います。9月に東ブロックの子どもキャンプ゚に行きました。「子どもキャンプ」という集まりでしたが、子どもは4人、大人は20人程で、子どもの5倍ほど大人がいました。そのような中で篠栗教会の伊藤先生が「神様からすればみんな子どもです」と言われ、その通り何歳になっても、私たちは神様の子どもなのだ、父なる神様にとっては、私たちがどれほど年をとったとしても、自分の愛する子どもとして見守っていて下さることを教えられました。
2: 自由とは
今日は、神様に祝福され、守られている、私たちが「自由」に生きるということを共に考えていきたいと思います。パウロとシラスは牢に入れられ、足には木の足かせをはめられたのです。パウロとシラスは肉体的自由を奪われていました。しかし二人は、神様を賛美し祈ったのです。二人は神様に従う者として心に自由を得ていたのです。
皆さんにとって「自由」とはどのような意味を持つでしょうか。自由とは、何にも縛られず、自分のしたいことをすることでしょうか。自分らしさが自分のためにとなっていくとき、それは、何にも縛られていないのではなく、自分の欲望に囚われ、支配されているということなのです。
3: 本当の自由
私たちの心は、何かを心の土台として、何かを心において生きています。言い換えると、何かに支配されている、何かの奴隷とされているということです。それが富なのか、権力なのか、人間なのか、罪なのか、それとも神様による愛なのか。神様の愛に支配されるとき本当の自由を得ることができるのです。
4: 主イエスを信じなさい
パウロとシラスが賛美しているとき、突然、大地震が起こりました。そしてすべての囚人の鎖が外されたのです。囚人たちはパウロとシラスの賛美と祈りによって、心に神様の愛を受け取り、心の痛みを癒された。鎖や足かせ心の痛みから解放され、神様の愛に捕らえられていったのです。賛美と祈りは人の心を癒します。
看守に対して、パウロとシラスは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(31)と教えます。「主イエスを信じる」とは、心の中心に神様を置くことです。イエス・キリストを自らの主と告白して生きてい時、私たちは本当の自由を得るでしょう。(笠井元)