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2021.11.24 「自分の体で神の栄光を現しなさい」 Ⅰコリントの信徒への手紙6:12-20

1: コリントの人々の主張とパウロの教え

今日の箇所では、コリントの人々の主張とパウロの教えとが記されています。どこまでがコリントの人々の主張であり、どこからがパウロの教えなのか、区切りが少しわかりにくいものとなっています。

 12節では2度「わたしにはすべてのことが許されている」(12a,c)(コリント)と言われます。これがコリントの教会の人々の主張の中心です。それに対して、パウロは「しかし、すべてのことが益になるわけではない。」(12b)「しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」(12dと教えるのです。

13節において「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。」(13a)(コリント)と言います。コリントの人々の主張です。それに対して、パウロは「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。」(パウロ)(13bと教えます。

パウロが「みだらな行いを避けなさい。」(パウロ)(18aと教えるのに対して、コリントの人々は「人が犯す罪はすべて体の外にあります。」(コリント)(18bと言います。そしてそれに対してパウロは「しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。」(18cと教えているのです。

 

2:  「自由」と「権利」を求めた

「わたしには、すべてのことが許されている。」このコリントの人々の主張は自分の知恵による「自由」と「権利」を求めた言葉なのです。コリントの人々は、人間の知恵に責任を置いたのです。「自分たちは知恵を持ち、考えに考えて道を選びとっていく」。そのために学び、知恵を得る。そこに「自由」があり「権利」がある。そしてその「責任」は選び取った自分たち自身の知恵にあるとするのです。

 コリントの人びとの「わたしには、すべてのことが許されている。」(12)という主張に対して、パウロは「しかし、すべてのことが益になるわけではない。」(12)と、反論するのです。

パウロの反論はコリントの人々からすれば驚きの言葉でした。もともとコリントに来て、「わたしたちには、すべてのことが許されている」と言ったのはパウロだと受け取っていたのです。コリントの人々は、パウロの言葉によってキリストを信じ「わたしには、すべてのことが許されている」と主張するようになったのです。それに対してパウロは「しかし、すべてのことが益になるわけではない。」「わたしは何事にも支配されはしない。」と言うのです。パウロは、律法からの解放を語るとともに、新しい教えとして「自分の体で神の栄光を現しなさい」と教えるのです。

 

3:  肉体についての考え方

「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。」(13)、「人が犯す罪はすべて体の外にあります。」(18)、またパウロの言葉からわかるように間違った性的行為を行っていたことがわかります。

コリントの人々の「肉体」に対する考え方の間違いがありました。コリントの人々は、物質的なものは最終的にはすべて滅びると考えていたのです。そのため、ただおなかがすいたら何かを食べればよい、同様に、性的欲求も満たしたければ満足させればよいと考えたのです。

 パウロは、肉体の意味、そして今の生き方の大切さを語ります。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(19-20)

 

4:  神の栄光を現す

 「自分の体で神の栄光を現す」。聖書は「あなたはなぜ生きているのか」という問いに「神様の栄光を現す」ために生きると教えます。この聖書の教えを受け入れることができるでしょうか。本来、人間は「自分は自分のために生きる者」と考えているものではないでしょうか。

今日の箇所で、コリントの人々は「わたしたちは自分のために生きる」と主張し、パウロは「あなたがたは、神様のために生きるのです」と教えているのです。

 私たちは、イエス・キリストの死という代価によって、罪から救い出されたのです。私たちは、もはや自分は自分のものではなく神様のものであり、イエス・キリストの十字架によって救い出されたものなのです。私たちは今、自分が何をするのか、何をすることが、本当に神様の栄光となるのか考えたいと思います。

 

「神様の栄光のために生きる」。それは「神様に愛されていることを忘れないで生きる」ことです。たとえどれほどの知恵や力をもっていても、逆にどれほど弱くなっても、わたしたちは神様に愛されているのです。神様に愛されていることを素直に受け入れることができれば、そこに本当の心の安らぎを得ることができるでしょう。 (笠井元)