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2021.12.19 「苦悩に寄り添われる神」(全文)  マタイによる福音書1:18ー25

1:  御子イエス・キリストを送られた神様の思い

クリスマスとは、神の御子イエス・キリストが、この世にお生まれになられたことをお祝いするとき、喜びの時です。日本でも、クリスマスには、皆さんお祭りムードになります。すべての人が、本当の意味を知っているわけではないと思いますが、世間はとても賑やかで、イルミネーションなどで、とても綺麗に飾られ、クリスマスケーキにサンタクロースからのプレゼントと、楽しいお祭りのような時となります。クリスマスは、私たちのために救い主がお生まれになられたことを喜ぶ時なのです。

では、少し視点を変えてみて、このイエス・キリスト、神の御子がこの世に来られたということは、神様にとっては一体どのような時なのでしょうか。神の御子イエス・キリストはこの世界に来られました。それは、私たち人間を愛するための神様の決断です。それこそ私たちと共に生きるための御業であり、神様にとっても、私たちが救いにあずかることができる、喜びの時であるとも思います。しかし、そのイエス・キリストの歩んだ道は、決して喜びだけの道ではありませんでした。時に人々に侮辱され、笑い者にされて、多くの人間から残虐な仕打ちを受けた。また、弟子たちには裏切られ、十字架の上で殺されていくのです。全知全能なる神様は、この世に御子を送る時、そのことを知り、理解していたでしょう。それこそ、だからこそ送ってくださったとも言うことが出来ますが、神様の思いは、喜びのみで満たされた出来事というよりも、苦しみと嘆きの出来事、苦痛と悩みの時といった非常に苦しい思いの時だったのではないでしょうか。

 

 現在、世界は、新型コロナウイルスの感染拡大が拡がり、二年ほどとなります。現在は新しいオミクロン株が拡がり始めています。ただ、現在、日本は少し安定しているから、ということもありますが、最初の頃の緊張感は、もはやないのではないでしょうか。それこそ、緊急事態宣言が出されたとしても、最初に出されたときの緊張感はなくなってきています。一つには、すでに人間が緊張感を持ち続けることの限界を越えてきているということを感じるのです。緊張し続ける生活に疲れたということです。また、ワクチンや薬の開発が進む中で、少しずつ不安や恐怖といったものが薄れてきているということでもあります。もう一つには、人間はやはり何かに縛り付けられ続けることを望んではいないということを見ることができるのです。

私たちには、自分の生きていきたい道がある、出来れば、自分の思い通りの道を歩んでいきたい。何かに縛られたくはない。そのように思うこと自体がすべて悪いとは思いませんが、時に、それはただの自己中心的生き方になってしまうことがあります。そして、それは神様という存在についても同じです。私たちにとって、自分の思いを聞かない神様、自分を縛り付ける神様などは、ただ邪魔な存在でしかなくなってしまっていくことがある。そして、そのような人間の思いが、イエス・キリストを十字架につけていったのです。

クリスマスとは、このような人間の中に、神様が、御子イエス・キリストを送ってくださったという出来事なのです。自分のことを必要としていない者たち。自分の存在を受け入れない、それどころか邪魔者とする。そのような者たちの中に、神様はイエス・キリストを送られたのです。神様は、喜びの思いのみで、イエス・キリストを送ったのではないでしょう。ただ、それは、自分がどれほど傷ついたとしても、それこそ死にいれられようとも、それでも人間を愛する道を選ばれた神の御業。まさに「敵を愛し、敵と共に生きる」という道を、神様は選ばれたのです。これがクリスマスになされた神様の御業です。神様は、私たちを愛して、命を懸けて、私たちを、慈しみ、救いの道を開かれるために、この世に来て下さったのです。

 

2:  ヨセフの苦悩

 今日の箇所では、イエス・キリストの誕生の次第が記されています。ここでは、イエス様の父親である、ヨセフが苦悩する姿が描かれています。クリスマスの時、神様が苦しみ、悩む中で、同じように悩んだ人。それがイエス様の父ヨセフです。このとき、ヨセフは、イエス様の母であるマリアと婚約関係にありました。その中でマリアが妊娠したということが分かったのです。このときのヨセフの思いはどのようなものであったでしょうか。それこそ、苦しみ、悩んだのではないでしょうか。自分の愛するマリアが、妊娠した。どうしてか。ヨセフの思いを考えるならば「裏切られた」と思ったのではないかと思うのです。自分の愛は何だったのか。それこそ憎しみも生まれていたかもしれません。

 ここでヨセフは「正しい人」とあります。これは律法の中にあっての「正しさ」を意味します。正しい人ヨセフがこれから歩むべき道は、二つありました。一つは、マリアを姦淫の罪で裁く道です。この道を選ぶとき、その結果は石打ちの刑、つまり極刑となります。ヨセフが、裏切られたという思いが強ければ、その憎しみから、マリアを死に追いやることが出来たのです。 もう一つの道は、離縁するという道でした。離縁をすることは、一時的にはマリアの命を助けることができますが、その後、マリアとその子どもは苦しい道を歩まなければならないことでした。どちらにしても、マリアを愛するヨセフにとっては苦渋の決断となります。律法という範囲の中で考えるならば、このどちらかを選ばなければならなかった。その中で、ヨセフは、後者である、離縁を選ぼうとしたのです。これが律法を守ることで正しい者とされる、ヨセフの選ぼうとした生き方です。

ヨセフにとっては、この律法を守ることが正しいことであり、それ以外の選択はないと考えていたのです。 

 

3:  インマヌエル 

 この苦悩するヨセフのところに、神様は来て下さいました。イエス・キリストは、このような困難を前に立ち行かない者、苦悩する者のところに来て下さったのです。先ほども言いましたが、このイエス・キリストの誕生という出来事は、神様にとっては、本来はあり得ない、危険なこと、苦難の中にあった、命を懸けた決断だったのです。この世、罪の世界に神様が来られる。全知全能の神が、弱く、欠けのある人間という存在となる。それは、神様の正しさを、神様が一歩超えて選んだ道ともいうことができるでしょう。それこそ、本来はありえない道。義なる方が、罪ある者となる。しかもその罪を持つ人間の代表として、命を捨てるのです。こんなことがあるはずがない。しかし、その道を神様は選び取られたのです。神様は、まさに、自分の中にある大切な一線を超えて歩き出したのです。神様はそこまでして人間を愛された。どれほどの罪人をも、自分の愛すべき隣人として受け止められたのです。

 今日の箇所では「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(1:23)といわれます。

 神様は、人間を愛し、ヨセフを愛し、マリアを愛し、そして私たちを愛し、そして、私たちと「共に生きる道」を選ばれたのでした。

 

4:   新しい道を歩き出す

ヨセフは、この「主が共におられる」という神様の愛に触れたのです。神様はヨセフにこのように言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(1:20-21

「恐れるな」。この神様の言葉はただ何もしないで語った言葉ではなく、自分が共にいるから、その苦悩も、不安も、自分が共に受け止めるから・・・だから「恐れるな」そして「マリアを迎え入れなさい」つまり、「律法にとらわれることなく、律法における正しい道ではなく、マリアを愛する道を選び取りなさい」と、神様は語られたのです。この神様の言葉、そして共にいてくださるという事実を通して、ヨセフは、律法を守ることによる正しさを一歩超えて歩き出した。マリアと共に生きる道を選び取ったのです。ヨセフは、神様の愛を受け、新しくされたのです。

これは、律法が無意味で、そのような律法は無価値だから捨てたということではないのです。もともと律法とは、神様による愛をいただき、共に愛し合って生きるために頂いた教えです。ヨセフは、その律法の本質を見た。ある意味、言葉だけの教えとしての律法ではなく、その意味を理解し、本当に律法に従う生き方を歩き出したのです。ヨセフは自分が痛み、苦しみ、それでもその正しさを超えて、マリアを愛し、共に生きる道を選んだのでした。

 

私たちは、このクリスマスの時に、今一度、自分が歩んでいる道を考えたいと思います。私たちは自分にとって正しい道を選ぶなかで、誰かを傷つけていないでしょうか。私たちは、自分の正しさを優先する中で、誰かを見捨てていないでしょうか。よく考えてみましょう。私たちの行為、言葉は、同じことをしていても、時に人を愛する業となり、時に、人を傷つけることとなることがあります。神様は、自らの命をかけて、愛する道を選び取ることを教えてくださいました。そして、私たちがそのような道を歩むことができるために、この世界に来てくださったのです。私たちはこのイエス・キリストに倣う者として歩みだしたいと思うのです。そのためにイエス・キリストがこの世界に来られたという、愛を受け取りましょう。神様は、自ら苦しみ、痛み、悲しみながらも、それでも、どのような時も、どのような私たちをも愛してくださっているのです。

皆さん、共にクリスマスを喜びましょう。神様の愛に触れる時として、このクリスマスを喜びましょう。その時、神様は共に喜んでくださっているでしょう。(笠井元)