1: 配偶者を失った者
今日の箇所は【未婚者とやもめに言います】(8)となります。「未婚者」とは、男性のやもめと考えられています。パウロは「男性、女性のやもめ」について語っています。パウロが結婚について語るとき男女平等に語ります。ここでも【皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。】(8)と言われていることから、パウロが「男性のやもめ」だったのではないかという考えもあります。
当時のユダヤ人男性にとって結婚していることは義務のようなことでした。ラビの教えでは「20歳を越えて結婚をしていない者は、全ての日を罪のうちに過ごしている」と言われています。そのような中でパウロは、男女のやもめに、「そのままでいなさい」と語っているのです。
9節【しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。】(9)この言葉は配偶者に先立たれた人に対してであり、その生活が情欲に飲み込まれることのないように、生活の中心に神様を置いて生きるための言葉です。コリントの教会では、肉体はいずれ滅ぶのだから「性的に自分たちは何をしてもよい」という考えと、それに対して「すべての欲求はいけないものだ」と両極端の意見がありました。この中で、パウロは再婚をする、しないではなく、神様に仕えて生きるためにどのようにしたらよいのかを考えるように教えているのです。
2: 離婚した状況
10節からの言葉は、結婚している夫婦に向けての言葉となります。ここでは「主」「イエス・キリスト」の命令として、「妻は夫と別れてはいけない」と教えます。
この言葉の前提として二つのことがありました。一つは、当時のコリントに禁欲主義を達成するために離婚をする者がいたということです。もう一つとして、他者と結婚するために配偶者と離婚をする者がいたということです。
イエス様はマルコ10章2節からこのように語りました。(マルコ10:2-12)パウロはイエス様が言われたように、姦通の罪を犯すことのないようにと教えたのです。そのためパウロは但し書きとして【――既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。――】(7:11)と教えます。つまり、他者と結婚するために離婚した者は、再婚せずに、禁欲主義から離婚した者は夫のもとに帰りなさいと教えます。
ここでは教会という共同体は、主の言葉に背いた者をすべて共同体から排除することではなく、柔軟性を持ち、何をすることが神様に仕えることとなるのかを考えて生きることを教えているのです。
3: 信者でない者との結婚(7:12-16)
12節からは、「主ではなくわたしが言う」と言います。「信者が信者ではない者と結婚するという」状況は、イエス様の時代には想定されていない状況でした。
パウロは、神様の働きを土台として「信者が信者ではない者と結婚する」ことから、「信者によって、信者でない者も聖なる者とされる」と言うのです。
コリントでは、むしろ、信者が信者でない者と結婚し、性的関係をもつときに、その者は汚れた者となると考える人が多くいたのです。そのような考えに対して「信者によって、信者でない者も聖なる者とされる」と教えた、つまり、神様の御業は汚れに飲み込まれるのではなく、むしろ神様の聖は、汚れを飲み込むと教えているのです。
続けて15節では「結婚に縛られてはいない」「平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。」と教えます。
【妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。】(16)
配偶者がイエス様に出会うことをあきらめる者に、神様の御業の大きさを語ります。パウロ自身、キリスト者を迫害していたにも関わらずキリストに出会い変えられたのです。この体験から、神様の御業の偉大さ、人間の思いを超えた御業を語ったのです。私たちは、神様の働きに委ねることの大切さを覚えたいと思います。(笠井元)