1: 二つのつまずき
今日の箇所で、イエス様は弟子たちに向けて「今夜、あなたがたは皆、わたしにつまずく」(31)と言われました。つまずきには二つのつまずきがあるとされます。一つは、取り除くことのできる、取り除くべきつまずきです。取り除くべきつまずきとは、信仰の障害となるものであり、私たちを誘惑し、罪に陥れるものです。このつまずきは人間が置いたものであり、信仰を守るために取り除くべき「つまずき」です。
イエス様はこのように言われました。「世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」(マタイ18:7-9)
ここでは、もし片手、片足、片目が躓かせるものとなるならば、それを切り落とし、えぐりだしてでも、「命にあずかるほうが良い」と言いました。人間を躓かせる心。その一つに「自分は強い」、「自分には神様の愛は必要ない」とする、「傲慢」という心があります。片手を切り、片手をえぐりだすことは、「片手の人」「目の不自由な人」には差別的であまり良い表現ではありませんが、一つの表現として不自由になることを表しています。そして、むしろ神様の前にあっては、すべての人間が不完全であること、人間はだれもが欠点を持ち、弱さを持っていることに、気づくことを教えられているのです。
もう一つのつまずき、それは神様によるつまずきです。今日の箇所で、イエス様は「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』」(31)と言いました。このつまずきは、神様が置いたつまずきであり、避けることのできないつまずき、それこそ担うべきつまずきなのです。このつまずきの出来事は「神様が羊飼いを撃たれる」ということ。つまり、この世の牧者、イエス・キリストを神様が撃たれることであり、このイエス・キリストが撃たれることによって、「羊」である、私たち人間が散らされるということです。ここでのイエス様の言葉は、これから起こるイエス様の十字架のことを意味しています。イエス・キリストの十字架。それは、神様から与えられたつまずきであり、これは誰も取り除くことも避けることもできない。むしろ担うべきつまずきであるのです。
2: 人間の弱さ
このイエス様の言葉に対して、ペトロはこのように言いました。【するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。】(マタイ26:33)このときのペトロの気持ちにはうそはなかったでしょう。ペトロは確かに、「わたしはつまずかない」「たとえ一緒に死ななければならなくなったとしてもついていく」と決心していたのでしょう。しかしこのペトロの思いはあくまでも自分の人間としての思いであり、人間としての強さに、より頼んだものでしかありませんでした。ペトロは「決してつまずかない」と言いました。しかし実際のところは、このあとイエス様のことを3度「知らない」と言うことになるのです。ペトロの信仰、思いが弱かったのでしょうか。そうではありません。人間の思いがどれほど強くても、それこそ100%、「絶対」とか「決して」という強さになることはないということなのです。それこそ、私たちも「絶対」といった強さをもってはいません。どれほど強く私たちが決心したとしても、私たち人間の思いというものは、折れる可能性があるものであり、弱いもの、そして変わるものなのです。
この後イエス様が言われたように、ペトロはイエス様を3度「知らない」と言います。この「イエス様を知らない」という言葉は、ただ「知らない」ということではなく、もっと強い意味で、イエス様との関係を否定した言葉となります。ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と言いました。これほど強い決心の言葉を言いながらも、それでもペトロはイエス様を捨て去り、その関係を否定したのです。これが人間の姿なのです。ある神学者は、「もし彼ら(福音書記者)が真理を愛する者でなかったとしたら、彼らはペトロが主を否み、弟子たちが皆逃げ去ったことを書き残したりはしなかったであろう」と言いました。
確かに、福音書記者は、このような「弱さ」、特にイエス様に選ばれた12弟子がイエス様を裏切ったり、「知らない」と言ったということを、なぜわざわざ書き記したのでしょうか。弟子の信仰の素晴らしさや、力強さを伝えたいならば、そのようなことは書き記さないはずです。しかし、マタイもマルコも、ルカもヨハネも、この人間の弱さがあることにこそ、神様の福音の意味があることを知っていた。この弟子の裏切り、ペトロの弱さ、そこに神様の愛、本当の慈しみを知ることとなる。だからこそ、その弱さを記したのでした。
26章では、ユダの裏切り、そしてペトロがイエス様を「知らない」と言ったということが記されています。このイスカリオテのユダと、ペトロは何が違ったのでしょうか。今では、ユダはイエス様を裏切り自死した者として、そしてペトロはカトリック教会では聖人とまでされる立場にあります。しかし、実際のところ、この二人の人間としての資質には大きな違いはなかったでしょう。二人とも弱さを持ち、イエス様を裏切り、見捨て、神様から離れていった罪ある人間でした。
その中でも、一つ大きな違いがあるとすれば、ユダは自分の罪を、自分一人で担い、自分の力で解決する道を考えた。つまり最後まで自分の力による、罪からの赦しの道を探し続けたのです。それに対して、ペトロは、自分の弱さ、罪を受け入れて下さる神様の恵みに触れたのです。自分の弱さを共に担ってくださる方を、十字架のイエス・キリストに見たのです。そして、ペトロは悔い改め、神様の愛を信じたのです。ただ神様の愛によってのみ、生かされ、赦されている道を歩き始めたのでした。
私たち人間は、何度もつまずき、倒れるものです。それこそ、どれほど強く神様に従おうと思っていても、そこから離れてしまうのです。それが人間です。そのような私たちが持つ「信仰」とは、自分が自分の確信により頼み、「神様に従う」と決心することではありません。むしろ何度でも折れてしまう自分の弱さ、繰り返しつまずき、倒れていく自分の弱さを、共に担ってくださるイエス・キリストに目を向けること、弱い自分を愛してくださり助けてくださる神様により頼むことなのです。
信仰とは、私たちの決心によって貫かれていくことではなく、神様の一方的な愛を、ただただ受け入れることです。聖書はこのように言います。【すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。】(Ⅱコリント12:9-10)私たちの人間としての弱さ。それは神様の愛を表すために大切な賜物です。私たちは、自分の欠点を、悲しむのではなく、神様の愛が表されるための喜び、大切な賜物として感謝して受け入れましょう。
3: わたしはあなたがたより先にガリラヤに行く
イエス様は32節において「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」(マタイ26:32)と言われました。
イエス様は、弟子たちのつまずきを語られました。
そのうえで、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」と語られたのです。
この言葉は、そのつまずきが永続的なものではないことを教えている。人間はつまずき倒れてしまう。しかし、そこで終わってしまうのではない。むしろそのつまずきから、新しいイエス様との交わりが与えられているのです。この時イエス様が引用したのは、旧約聖書のゼカリヤ書です。ゼカリヤ書ではこのように言われます。
【剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ、わたしの同僚であった男に立ち向かえと、万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。 この三分の一をわたしは火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え「彼こそわたしの民」と言い、彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。】(ゼカリヤ書13:7-9)
ここでは3分の1の民は、精錬(せいれん)され「主こそわたしの神」と答えるようになると語ります。つまり、羊飼いであるイエス・キリストが撃たれ、羊であるイスラエルの民、そして私たち、教会は散らされる。しかし、そこで終わりではないのです。そこから「主こそわたしの神」と言う者とされていくのです。つまずき、散らされ、しかしそこから精錬されていく。その試練を通して、本当の信仰を受けることを教えているのです。イエス様は弱く崩れやすい弟子たちに「復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われました。それは「私が先立って行く」と言われているのです。私たちが歩む道。それはイエス・キリストを先頭とした道です。イエス・キリストは十字架で死に、そして復活されました。キリストの道。その道は十字架によってつまずき、倒れた者を、復活という新しい命によって開かれた道なのです。
今日は、今年最後の礼拝となります。一年を終えて、新しい年を迎えるにあたり、私たちは、イエス・キリストの復活に今一度、目を向けたいと思います。キリストは復活されました。今年も様々なことがありました。また新しい年も様々なことがあるでしょう。何度も何度もつまずき倒れるかもしれません。しかし、それでも、そこに主イエスが共にいてくださり、そして、その先を歩み、新しく生きる道を開いて下さっていることを覚えたいと思います。主が共におられる。そして新しい命、新しい道という希望を、創り出して、与えて下さるのです。私たちは自分の弱さや力のなさに嘆くのではなく、キリストによって開かれる道があることを信じて、歩いていきたいと思います。(笠井元)