1: 結婚の話の中で
Ⅰコリント7章は、コリントの教会からの質問に答える形で、男女の関係、特に結婚について語られています。今日のこの箇所はその間にある箇所です。ここでは、割礼と無割礼、奴隷と自由人というについて語ります。この箇所は、割礼、無割礼、奴隷、自由人という例を用いて、結婚のことついて教えているのです。
ここで教えることは、「あなたがたは神に召されたのだから、社会的な地位、状態に囚われることないように、結婚に囚われることなく、神に買い取られた者として歩みなさい」と教えているのです。
コリントの教会では、キリスト者となったことから、結婚・性的関係を汚れたものとし、離婚する者が出てきていたのです。パウロは「そのままでいなさい」と教え、「そのようなことではなく、神様に召された者として歩みなさい」と教えるのです。
2: 割礼の有無
パウロは18-19節において割礼の有無について語りました。パウロはキリストによる信仰共同体であるためには、割礼の有無は関係ないと教えました。教会は民族・文化といった境界を越えた信仰共同体であり、異邦人とかユダヤ人という区別は必要ないということです。
「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。」(7:19)キリスト者にとっての「神の掟」はキリストに繋がっているということです。
3:1 奴隷と自由人 7:20~23
ここで、パウロがここで伝えようとしていることは、23節にある「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。」(23)ということです。そのような意味では、大切な言葉となります。
しかし、ここでの言葉は問題を含む言葉となっています。「奴隷は奴隷のままでいなさい。」という言葉は、権力者が自分の地位を守るために都合の良いように使われてきた言葉となるのです。
現代聖書注解では、当時のことを考えると、ギリシア・ローマにおいて奴隷制度は、普及した制度であり抑圧的なものではなかった。奴隷制度が多くの人々の経済的安定を与えていたということから、当時の奴隷制度を肯定する内容が記されていました。
新約聖書注解でこのパウロの言葉を問題視するも、この言葉は、奴隷制度を肯定したものではなく、教会はそのようなこの世の身分差は越えられているものであるという前提のもとで語られたものだとしています。
ただ、時代背景からこの言葉を肯定すること、また、「教会だからこの世の身分差は越えられる」という考え方にも問題があり、このような考え方こそが大きな差別を生み出してきたと感じるのです。
3:2 7:21の解釈
【一コリ 7:21 召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。】(口語訳)
【Ⅰコリ 7:21 奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。】(新改訳)
【一コリ 7:21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。】(新共同訳)
7:21は翻訳によってまったく真逆の捉え方となっています。割礼の言葉の続きとして見る限りから、新共同訳のように「今のままでありなさい」という訳で考えることが自然です。
3:3 自由人 キリストの奴隷
どちらにしても、パウロは、22節にあるように、あなたがたは神に召された奴隷であり、自由な者であり、キリストの奴隷であると教えているのです。
パウロは、「割礼の有無」「身分の問題」ではなく、「それらを気にすることなく、神様に召された者として、キリストの奴隷として生きていきなさい」と教えているのです。神様はイエス・キリストを十字架の死を身代金として、私たちを買い取ってくださったのです。
4:神様に召された者
今日の箇所では「召す」という言葉が8回出てきます。ここでは、私たちが神様に召されていることを強く語っています。神様に召された者は、この世の権力に押さえつけられることのない、本当の自由を受けた者です。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:16-17)
神様は私たちを選びだし、召してくださったのです。そして私たちに「互いに愛し合いなさい」と教えるのです。先ほどありました「神の掟」(19)として、イエス・キリストは「互いに愛し合いなさい」と教えられたのです。(笠井元)