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2022.1.2 「神の創造された世界に生きる」(全文)  創世記1:1-5

1:  聖書を読む基本的姿勢

 今日は、新しい年を迎えるにあたって、聖書の最初の最初、創世記の1章から学んでいきたいと思います。今日の箇所は、小見出しに「天地の創造」とあるように、神様がこの世界を創造された、創造物語の第一日目を記した箇所となります。まず、この創造物語を見ていくにあたって、その基本的な姿勢を考えていきたいと思います。私たちが聖書を読むための基本的な姿勢として、神学部の旧約聖書の先生でした、小林洋一先生から、「聖書は歴史の書ではありません。科学の書でもありません。聖書は信仰の書物です。」と学びました。聖書を何のために読んでいくのか。それは、歴史を学ぶためでも、科学を学ぶためにでもなく、神様を知り、神様の救いの御計画を知り、信仰を養っていく。私たちはそのために聖書を読むのです。

 今日の箇所は、神様が天と地を創造されたことが記されています。いわゆる天地創造の物語の第一日目となります。この天地創造の話、特に、5日目までの話は、人間が造られる以前の話なので、当たり前ですが、誰も見たことがないこととなるのです。聖書はだれも見たことのない事柄を、ここで語っています。そのため、この箇所が歴史的に正しいか、科学的に正しいかと読んで検証していくことは意味のないことです。むしろ私たちは、ここから、信仰の事柄、神様が何を私たちに語ろうとしているのかを、読み取っていきたいと思います。

 

2:  神様が世界を創造された意味

 では、この創造物語は、私たちに、何を語ろうとしているのでしょうか。1節では、まずこのように語ります。【初めに、神は天地を創造された。】(1:1)ここでは世界が「どのようにできたか」ということを教えてはいません。ここでは、神様が世界を「なぜ創造された」のかということ。その世界の創造の意味を教えているのです。 

世界は神様によって創造された。このことは人間にとって「当然のこと」ではないでしょう。むしろこのことを知らない、信じていない者として、私たちは生きているのではないでしょうか。神様が世界を創られた。私たちは神様に創られた者である。どれだけの人が、このことを受け入れて生きているでしょうか。私たちは、自分の命は神様によって創られ、今も与えられているものとして受け入れているでしょうか。むしろ自分の命は自分のもの、自分の生きていきたいように生きる。他者のために生きる必要などないし、お互いを愛する必要もないと考えてしまっていることが多々あるのではないでしょうか。 そのような私たち人間に聖書は、「世界は神様によって創られた被造物であり、人間もまた、神様に創られたものである」と教えるのです。

 

3: 混沌 創造の業を破壊する 

 旧約聖書では、この創造主なる神様を、陶器を作る陶工として、たとえます。陶工は、その器を作る時に、目的、意図、意志や思いを持って作ります。「何のために」「どのような形で」よくよく考えて、計画をたて、作るのです。神様もこの世界、そして私たち人間を、「何のために」「どのように」と、よくよく考えて創られた。この世界、そして私たち人間一人ひとり、小さな花や鳥、そのすべては神様の思いによって創られたものなのです。

しかし、2節では【地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。】(創世記1:2)とあります。ここで言われている「混沌」という状態は、何もないというよりは、命を生み出すことのない状態、秩序のない状態、秩序を破壊している状態を意味しています。神様が意志と目的をもって創られたこの世界において、無意味に無秩序に命が傷つけられ、奪われ、破壊されていく。そのことを、ここで、「混沌」と記しているのです。世界は、神様の意志をもって創られた。だからこそ、私たちは、この世界を破壊することも、また命を奪うことも許されていないのです。だからこそ、人が傷つけられ、その命が奪われていく社会、戦争や貧困、自然環境の破壊といった問題の続く世界は、「混沌」、神様の意志、神様の思いを無視した世界と言うことができるでしょう。つまり、私たちが自分のためを考え、自分勝手にこの世界を破壊するとき、神様の創造の業を壊してしまっているのです。

 

4: 命を頂いて生かされている

 命を奪ってはならない。このことは、神様の創造を破壊しないための、大切な戒めとなります。 ただ、そのうえで、神様は私たちに、動物や植物を食べることを許されたということも覚える必要があります。動物や植物の命を食べることは罪となるのでしょうか。私たちが動物や植物を食べるということ、それ自体は、罪とはならないでしょう。しかし、その命を粗末にすることは許されていません。「命」を食べるということを、私が神学生の時の牧師先生は「命の移し替え」、そして「命の受け渡し」と言いました。そこでは、食材をただの「物」としてではなく「命」として捉えることの大切さ、「命を食べるとき」、「命の受け渡し」が起こっている。この世界はこの「命の受け渡し」の中にある。たちもまた、神様の創られた世界で命を頂き、また命を差し出して生きる。そして、この最も大きな「命の移し替え」、「命の受け渡し」。それこそ、イエス・キリストの十字架の贖いと復活であり、命が破壊される世界に、新しい命、永遠の命を生み出してくださった出来事であったと教えられました。

 

5:  光あれ 無秩序に秩序を

 この創世記が一つの書として、まとめられていったのは、イスラエルの人々がバビロニア帝国において、捕囚の状態、国を奪われ、知らない国へと捕虜として連れていかれた時であり、夢も希望も奪われてしまったような状態だったのです。それは、ある意味、イスラエルの人々は、異教の地において、「混沌」の世界にいたと言えるのです。この異教の地にあってイスラエルの民は【初めに、神は天地を創造された。】(1:1)と言ったのです。これはただの言葉ではなく、信仰の戦いの中で語られた信仰告白。自分たちがどのような状況にあっても、変わることなく神様を信じる信仰の言葉なのです。そして、この混沌の中にあって、神様は【「光あれ。」】(1:3)と語ったのです。この光は、混沌の世界にあって、世界を照らす光であり、命を与える光です。それはまた、無秩序という状態、命を破壊することが当然のような中にあって、そこに神様が秩序をもたらすという言葉であり、一人一人に命を与えるという意味の言葉なのです。神様はこの混沌の中に秩序を創造された。命が破壊され、さげすまれる状態にあって、命を創り出されたのです。

 

6:  十字架と復活より命をいただく

神様の創造の業とは、命のない世界に命を生み出し、秩序のない状態に秩序を創り出して下さった出来事です。この創造の業は今も続いているのです。それは、今、夢や希望を失った者、生きる意味を見失った者に、新しい命を与えてくださる出来事なのです。新しい命の創造。イエス・キリストの十字架と復活が、イエス・キリストの命が、命のない世界に新しい命を生み出して下さったのです。私たちは、このイエス・キリストの命に与っていく者なのです。

これから新しい一年が始まります。私たちは何のために生きるのでしょうか。それは、私たちが、イエス・キリストの命を頂き、自らの命も、そして他の人々の命も、生かし、育む業に生きる者へと変えられ、神様の新しい命、愛を広げていくためです。私たちは、神様から命を育むことを託されているのです。神様の創造の業は、今も、そのようにして、日々、私たちを通して行われていくのです。私たちは、イエス・キリストの与えてくださっている命をしっかりと受け取り、そして、神様に新しく創造された者として、歩んでいきたいと思います。今も、神様の創造の働きがなされています。私たちは、その神様の創造の業、働きに参与する、そのような者とされていきたいと思います。(笠井元)