1: 終末という希望
【今危機が迫っている状態にある】(26)、【定められた時は迫っています】(29)とあるように、パウロは終末が近い将来に来ると考えていたのです。まもなく終末の時がくる。だから【人は現状に留まっているのがよい】(26)【そのままでいる方がずっと幸福です】(40)と言います。パウロは27節から「結婚すること自体が罪になるわけではないが、それは苦労を負うことになる。あなたがたに苦労を負わせたくない」というのです。
今日はまず終末を見ることの大切さを学びたいと思います。現在はパウロの時のように緊張感をもって終末を感じていないかもしれません。私たちは終末「神の国の完成の時」を見ているでしょうか。終末とは変わることのない希望です。終末・希望を見ることは「何のために、どのように生きるのか」ということを決定づけることとなるのです。
私たちは現実に起こる喜びの事柄、悲しみの事柄に一喜一憂します。終末は、そのような私たちに、いずれ神様の愛の完成の時がくるという希望です。
【そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。】(ローマ5:3-6)
キリストが死んでくださったことによって義とされた。この希望が変わることはないのです。
2: この世の出来事に囚われることのないように
パウロは近づく終末を待ち望んでいる中で「結婚について」語ります。パウロの結婚についての考えはまもなく終末の時がくる・・・だから「そのままでいなさい」ということでした。
パウロは29節からの言葉で、「この世はまもなく過ぎ去る。過ぎ去るこの世の事柄に心を煩わせることのないように」と教えているのです。終わりの時に、今泣いていたとしても神様が涙をぬぐいさってくださる。今の喜びを超えた、完全なる喜びがくる。愛を現す一つの形、「夫婦」という形を超えた完全なる愛の関係が与えられる。だからこそ、今ある、この世の出来事に囚われる必要はないと教えるのです。
続けて32節からは、パウロは、結婚することによって、夫は妻のこと、妻は夫のことを考え、心を遣うことになり、心が二つに分かれてしまう。そのため神様に仕えることの妨げとなると教えています。ここでも29節からの言葉と同じように、「この世のことに囚われず、ひたすら主に仕える」ことを教えます。
3: 希望を持ってひたすら主に仕える
これらのパウロの教えは、まもなく終末が来るという緊急性、緊張感の中での言葉となります。今、私たちはこの言葉をどのように聞き、何を学ぶことができるでしょうか。
神学生の頃牧師から「結婚する・しないといったことだけではなく、この世の未来に希望を持てないからと諦めて何もしないことは無責任なことである。未来は神様の創造の業であるのだから、人間は神様に希望を持ち、神様に仕える責任がある。希望のない社会なら、希望の持てるような社会になるために生きるように。」といった内容のことを教えられました。
私たちは、いずれくる「終末」に変わらぬ希望を持って「今」を生きていきたい。いずれ与えられる神様の愛の完成の時を目指して、「今」ここに神様の愛、イエス・キリストが共にいてくださるということを受け取り、神の愛を表して生きていきたいと思います。
私たちに与えられている愛の形は、結婚すること、独身でいること、または様々な形でパートナーと共に生きること、その形は様々です。兄弟姉妹と関わり、祈り合い生きること、共に生きることを大切にしていきたいと思います。
パウロは、当時のコリントの教会の状況、問題、または、まもなくやってくる終末を考えながら「そのままでいる」という形で「ひたすら主に仕える」ことを勧めました。私たちは、終末という希望を待ち望みつつ、お互いに関わり合うために一歩、歩き出すという形で「ひたすら主に仕える者」となっていきたいと思います。(笠井元)