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2022.1.16 「共に祈る:神様の御心を求めて」(全文)  マタイによる福音書26:36ー46

1:  人間イエスの祈り 

 今日の箇所は、いわゆる「ゲッセマネの祈り」とされる、イエス様が、十字架の前に、神様に祈られた場面となります。ここでは、イエス様の・・・人間として生まれ、人間として生き、そして人間として死を前にして怯え、悲しまれているという、イエス様の人間としての姿を見ることができるのです。 

 2000年以上続く、キリスト教の信仰は、これまで、右にそれ、左にそれと、様々な意見によって揺り動かされながら、今の信仰に至ります。その中では、様々な、異端とされる考えがいくつも出てきました。その一つの大きな問題となった事柄は、イエス様は神様なのか、人間なのか、という問題です。人間の常識、理解の範囲では、神であり人であるということは理論的に不可能なこと、受け入れられないことかもしれません。しかし、イエス様は、100%神様であり、100%人間なのです。この考えは、合わせると200%になってしまうのですから、人間の常識を超えていること、ありえないこととなるのです。多くの人々は、この考えを、なんとか100%で納めようとしてきたのです。イエス様はどのような時も、完全なる神様であり、完全なる人間である。そのような考えを前提に、今日の箇所を見たいと思います。

 

 先ほども言いましたが、今日の箇所は、イエス様の人間としての姿が現されています。ここでは、イエス様は、自分が十字架、死に向かっていかなければならない。そのために、弟子の裏切り、逃げ出す姿、「知らないという言葉」を受けていかなければならなかった。このことを前に、悲しみ、悶え、苦しんだのです。39節でイエス様は【少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。】(39)とうつ伏せで祈ったのです。

現在は、私たちはどちらかといえば、顔を下げて祈ることが多いかもしれませんが、当時、祈りの時は顔を上げて祈られていたとされます。天におられる神様に顔を上げ祈ったのでした。しかし、ここではイエス様は「うつ伏せになった」のです。これは、神様に顔を向けることができない祈りの内容、人間としての弱さを持って祈っていたことを表すのです。イエス様の祈りの内容は「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」という祈りでした。死を恐れ、悶え、苦しんだ、これが人間としてのイエス様の本音です。

2: 苦しみを分かち合う 

 イエス様はペトロ、そしてゼベダイの子、ヤコブとヨハネにこのように言いました。【わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい】(36)【わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。】(38)イエス様は、自分の苦しみを、分かち合ってほしいと願ったのです。これが人間としてのイエス様の姿です。

私たちは、自分の苦しみを分かち合うことが出来ているでしょうか。私たちは「祈り合う」ことが出来ているでしょうか。

今日は、教会の創立記念の日でもあります。69年前に、私たちの信仰の先輩たちは強い祈りをもって、この教会に集まったのです。教会は建物があることで教会となるのではないのです。それこそ、そこにキリスト者がイエス・キリストによって、祈りを合わせる者、共に生きる者として集められていく、そこに教会が造られていくのです。この教会は、これまで多くの人々の祈りに支えられて、今、ここにあるのです。それこそ、多くの人々がお互いの痛みや苦しみを分かち合い、祈り合い、ここに共に立てられてきたのです。私たちはキリストによって繋げられている「兄弟姉妹」です。イエス様は、その苦しみ、自分の弱さを弟子たちにさらけ出して、共に分かち合うことを選んだのです。私たちは、イエス・キリストに従う者として、またこの教会が今、ここにあり、その信仰を受けつぐ者として、ここで共に祈り合い、歩み続けていきたいと思います。

 

3:  誘惑に陥らぬように 40-41

イエス様が苦しみ、悶え、祈る中にあって、弟子たちは眠ってしまいました。イエス様が、自分の弱さをさらけ出し、「共に祈ってほしい」と、願う中で、弟子たちは、イエス様の思いを受け取って、歩むことができなかったのです。イエス様は、この姿を見て、【26:41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。】(41)と言われました。

弟子たちに向けられた誘惑。それは「自分の力を信じる」という誘惑です。ペトロをはじめ、イエス様の弟子たちは「自分は決してあなたを離れることはない。自分は強い信仰を持っている」と思っていた。この思いこそが、神様を忘れ、誘惑に陥っていかせたのです。

私たちは、様々な問題に直面します。それこそ今、私たち、世界中が向き合う問題として、新型コロナウイルスの感染拡大という問題があります。また、現在はSDGsとして、貧困や不平等、環境問題などを挙げた問題提起、目標も作られています。このような問題に取り組むことはとても大切なことです。ただ、その問題解決に必要なことは、まず人間の限界を知ることだと思うのです。

自分たちでできる。神様など必要ない。これが人間と神様を引き離す大きな誘惑です。私たちは、心から神様を追い出し、扉を閉じていくように誘惑されているのです。イエス様は、このような人間に対して、「私と共に祈ってほしい」「私のために祈ってください」と自分の弱さをさらけだし、祈り願っているのです。それは裏切られることをも含めたうえでの、願いであったともいうことができるのです。

 

4:  御心を求める祈り

この後イエス様は二度目の祈りをなされました。イエス様は、一度祈って終わりませんでした。二度目の祈り、そして三度目の祈りへと続きます。【二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」】(42)この祈りには、一度目の祈りからの心の変化を見ることが出来るのです。最初は「この杯を過ぎ去らせてください」と祈ったイエス様ですが、ここでは、「わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」と祈るのです。ここではイエス様の心が祈りによって整えられていく姿を見ることができるのです。イエス様は、十字架の前に急に祈ったのではありませんでした。イエス様は日々祈っていた。ファリサイ派の人々と討論をするとき、弟子を派遣するとき、癒しや奇跡を行うとき、そのどのような時も、イエス様の人生は神様に祈ってきた日々でした。イエス様は、日々の祈りの中で、神様の御心を受け取ってきたのです。今日の、ゲッセマネの祈りは、イエス様の祈りの生活の中でなされた一つの祈りです。 

キリスト教で、祈りと言えば「賛美」「感謝」「悔い改め」「とりなし」など様々な内容が挙げられますが、何よりも、祈りは「神様との会話」となります。「会話」ですから、私たちは神様に語り掛けると同時に、私たちは祈りで神様の御心を聞くのです。イエス様は「あなたの御心が行われますように。」と祈り続けました。つまり、神様にその御心を聞こうとしていた姿を見ることができるのです。

 皆さんは、祈りの中で「神様の御心を聞こう」としているでしょうか。祈りの中で、直接、神様の声が耳に聞こえてくるということはなかなかないと思います。それこそ今日の箇所でも、神様がイエス様に直接、このように語ったといった言葉は記されていないのです。イエス様は、神様の御心を求め、日々祈り、何度も祈ったのです。神様の御心を求め、聞き取っていったのでした。そしてその中で、少しずつ心を整えられていったのです。

 

 イエス様は「この杯を過ぎらせてください」と願いました。しかしその御心として受け取った思いは「この杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」というものでした。つまり、この杯とされる十字架が、あなたの御心ならば、「受け取っていきます」と心を整えられていったのです。神様の御言葉は、私たちの心に響きます。そして私たちの心を整え、変える力を持っているのです。人間の心が揺り動かされることを見るとき、そこに神様の御心、御業を見るのです。今日の箇所では、イエス様、ご自身が心を変えられていきました。ここに神様の御業を見るのです。

 

5:  立て、行こう

最後に、イエス様は弟子たちにこのように言いました。【あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。】(45-46

イエス様は「時が近づいた」「立て、行こう」と言われるのです。イエス様は、今、私たちに言われます。「立て、行こう」と。このとき、弟子たちは、まだ、眠り、休んでいたのです。祈りを分かち合い、御心を聞き、十字架という神様の御業に従う道に歩む決心をされたイエス様を前に、まだ寝ていたのです。そのような弟子に、イエス様は「立て、行こう」と語られました。イエス様は「私は神様の御心に歩む心を与えられた。あなた方も共に歩んでいこう」と、共に歩むために手を差し伸べられたのです。

 

私たちは、このイエス・キリストの指し示された道を共に歩んでいきたい。イエス様が差し出してくださった手を握り、新しく歩き出したいと思います。イエス様と共に生きる道。それは、祈りの道であり、分かち合いの道です。それは神様の御心を求め、御業に生きる道です。それは十字架という、自分を捨てることによって命を得る道です。そしてそれは、復活という新しい命の創造、新しく創り変えられる道です。私たちは、神様の御心に従って、イエス・キリストと共に歩んでいきましょう。(笠井元)