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2022.1.23 「すべてを受け入れられる神様」(全文)  マタイによる福音書26:47ー56

1: 闇の中で

今日の箇所は、イスカリオテのユダを先頭に、大勢の群衆が剣や棒を持ちやってきて、イエス様を捕えていく場面となります。これは、イエス様が主の晩餐を行い、ペトロの裏切りの予告をし、そしてゲッセマネでの祈りの後となります。これは夜の出来事でした。ヨハネによる福音書では【ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。】(ヨハネ13:30)ともあります。夜。ユダは闇の中に出ていき、イエス様を裏切る道を歩き出したのでした。ここでの夜とは、時間的なものとしてはもちろんですが、イスカリオテのユダの心の中を表しているものとして読み取ることができます。イエス様を裏切り、売り渡す時、ユダの心は闇の中を歩きだしていたのです。 

心に闇を持つこと。そして、その闇の中を歩き出すこと。この出来事はこのイスカリオテのユダ、一人の出来事ではないでしょう。闇。それはすべての人間の心の中にあるものなのです。それこそ、そのような闇の心を持っていないということの方が問題かもしれません。この後、ペトロは三度「イエスなどは知らない」と言い、弟子たちは逃げ出しました。群衆は「十字架につけろ」と叫び、罪を見いだせなかったにも関わらず、十字架刑にしたピラト。これらもまた、「闇」に捕らわれて行った行為なのです。このように、誰もが、この闇の心に支配されていくことがある。人間は、時に、光の道を歩み、時に闇の中を歩んでいく。それが完全ではない、弱さをもつ人間の姿なのです。

 

2: いつもの挨拶 誘惑

 このユダを引きずりこんでいった「闇」。そして、すべての人間を陥れる「闇」。それは別の言葉で言えば「誘惑」ということができるでしょう。誘惑とは私たち人間が、ただ悪いことをするための力ではなく、神様から離れるために働く力です。今日の箇所で、ユダを闇に引きずり込んだ「誘惑」は、ある意味一番恐ろしい誘惑の力であったと言えるでしょう。ユダは、イエス様を捕えるための合図として、接吻をすることとしました。これは、日常の行為であり、またこの時のユダの挨拶「先生、こんばんは」という言葉も、日常の挨拶でした。このユダのいつもの接吻と挨拶が、イエス様を裏切る合図となったのです。

 ユダは日常の行為を通して、イエス様を裏切っていったのです。これは私たちの日常、私たちの何気ない生活、何気ない日々の営みの中に、神様を裏切る行為があること。そして、そのように闇に引きずり込んでいく誘惑があることを意味します。

 

3: 神様に求めているもの

私たちは、日々の営み、日常の生活において、神様にいったい何を求めているのでしょうか。いわゆるご利益宗教で、人間は、神様に、この世の人間的利益を求めているのです。神様が、その力をもって、人間、自分自身のために働くことを求めるのです。それは、まるで神様とは、自分の命令を聞く者こそ神様であり、神様は自分の召使いのように考えているということです。そしてその思いが閉ざされるとき、神様に不満を持ち、不信仰へと向かっていく。私たちは日々の生活の中で、このような神様を求めていないでしょうか。

イエス様はユダに裏切られ、群衆に捕らえられていく中「お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(53)と言われました。しかし、そのような力を持つ中、そのような力で抵抗されることはなく、ただただ捕らえられていったのです。イエス様は、何もせず、無力な者として捕らえられていったのです。

人間は、このような、この世において無力に見える神様を信じることができるのでしょうか。無力な神。このような者がどうして救い主ということができるのでしょうか。私たちは、予想外の病気や死に出会うとき、今で言えば、この新型コロナウイルスの感染拡大という世界中を混乱に陥れている困難の中、多くの方々が亡くなられ、苦しみ続ける中、「神様は何をしておられるのか」と問うのではないでしょうか。「なんでこんなに苦しまなければならないのか」「神様は本当に人間を愛しておられるのか」「神様は人間を見捨てられたのではないか」と、考えるものだと思うのです。

 

3: 「友よ」 裏切りを受け入れられたイエス

 イエス様は、このユダの挨拶に対して、【「友よ、しようとしていることをするがよい」】(26:50)と言われたのです。イエス様は「友よ」と答えられました。つまり、日常の挨拶をもって裏切るユダを「友よ」と受け入れられた。ユダの心は闇に捕らえられ、そのいつもの挨拶は、裏切りの合図とされていたのです。その返答としてイエス様は変わることのない言葉、変わることのない姿、そしてそれは、変わることのない愛をもって答えたのでした。イエス様は変わることはなかったのです。ユダがどれほど闇に囚われていようとも。それは、私たち人間がどれほど、神様を裏切ったとしても、どれほど罪に溺れても、イエス・キリストは変わることはない。神様は変わることなく、私たち受け入れてくださるのです。 この変わることのない、神様の愛は、ユダの裏切りによって捕らえられていく、無力なイエス様の姿によって現されます。

ナチスドイツの時代、捕えられ、絞首刑とされたボンヘッファーはこのように言いました。「神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる。神はご自分をこの世から十字架へと追いやられるにまかせる。神はこの世において無力で弱い。そしてまさにそのようにして、ただそのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、またわれわれを助けるのである」(ボンヘッファー獄中書簡集)

 神様は、この世で無力で弱い者として生きることによって、私たちと共に生きる者となって下さったのです。それこそ、2011年に起きた東日本大震災の時にも、多くの人々がこのように思ったのです。「なぜ、どうして、このようなことが起こるのか」「神様はおられるのか」「神様がおられるならば、何を思いこんなことをされるのか」2011年は、私は北海道で牧師をしていましたが、教会の方は、わたしに「どうしてこんなに苦しめられるのか」「わたしは、神様という存在は信じているが、神様の愛が理解できなくなった」と言われました。

 神様の恵み。それは、ただ無力にも捕らえられ、十字架という死に向かわれたイエス・キリストに表されます。神様は、この世において、どこまでも小さい者、弱い者となられた。そしてそのことを通して、私たちと共に生きる者となってくださったのです。東日本大震災という災害、今の新型コロナウイルスの感染拡大という困難・・・世界中にある貧困や戦争。人間の差別や憎しみ。これらがどうしてあるのか・・・その問いに簡単には、答えることはできません。ただ言えるのは、津波や地震で亡くなられた方、新型コロナウイルスに感染し、苦しんでいる方、不安の中にいる人々、その家族・・・そのすべての人間の痛みを、イエス様は共に担い、共に苦しみ、共にいてくださっているのです。

 神様の恵み。それは、どのような時も、変わることはありません。神様は、どのような時も、私たちを見捨てることはないのです。その愛は少しでも欠けることはない。神様は完全なる愛で、いつも私たちを愛し、共に生きてくださっているのです。

 

4: 御心の実現

 最後に、今日の箇所における、神様の御心の実現ということについて、見ていきたいと思います。 このユダの裏切り、そして群衆の行為は、まさに、闇に引きずり込まれた人間の行為でした。この人間の行為に対して、イエス様の弟子は、剣を抜き、打ちかかり、片方の耳を切り落としたのでした。これは、力に対する力での対抗の行為であり、ユダの裏切りを、受け入れられない人間の姿、それこそ闇に引きずり込まれた者に向き合う中で、自らも闇に引きずり込まれていく人間の姿です。 これに対して、イエス様は「剣をさやに納めなさい」と語り「この出来事は、聖書の言葉が実現するためである」と教えるのです。 

ユダの裏切り。それは誘惑に引きずり込まれていった人間の罪の姿です。しかし、神様は、その人間の罪をも受け入れられ、自らの御心の実現の出来事と変えられていくのです。ユダの裏切りは、イエス・キリストを十字架へと歩ませていくこととなるのです。つまり、このユダの裏切りをもって、神様は変わらぬ愛の出来事を実現されていったのです。私たち人間は、弱く、神様を裏切る者です。しかし、そのような私たちを受け入れるために、イエス・キリストは十字架で死なれたのです。どれほどの私たちの罪も、裏切りも、神様は、ご自身が痛み、苦しむことをもって、救いの出来事、愛の業として、受け入れてくださったのです。

 

神様は、私たちのすべてを受け入れてくださいます。そして、そのすべてを神様の御心の実現へと向かわしてくださるのです。私たちは、この神様の変わることのない愛、無限の愛を感謝して受け入れていきたいと思います。神様の愛は変わることはありません。そして、その変わることのない愛をもって、私たちを受け入れてくださるのです。そして、だからこそ、私たちは、この神様の愛を受けていきましょう。そして、神様の御心が、この世に実現するために、すべてを神様に委ねる者として歩んでいきたいと思います。(笠井元)