東福岡教会

Instagram

特別集会

子どもクリスマス会

12月21日(土)

13:30~15:00

クリスマス礼拝

12月22日(日)

11:00~12:00

クリスマス・イブ礼拝

12月24日(火)

19:30~21:00

 

東福岡幼稚園

入園・未就園児クラス

申し込み

随時受け付けています

バプテスト東福岡教会

福岡市東区馬出4-13-15

TEL:092-651-3978

     092-651-6270 


アクセスカウンター カウンターカフェ

2022.1.26 「知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造り上げる」 Ⅰコリントの信徒への手紙8:1ー13

1: 偶像に供えられた肉の問題 

 パウロはコリントにあった「偶像に供えられた肉」の問題について答えます。コリントの教会では、「異教の生贄として使われた動物の肉を食べることは許されるのか」という議論がありました。

使徒言行録の15章のエルサレム会議では、異教からの改宗者に「割礼」をすること「モーセの律法を守ること」については「異邦人も主イエスの恵みによって救われるのだから、自分たちも負いきれない軛を課すことはしない」と結論をだしました。ただ、そのうえで、15:28~29において「偶像に献げられた動物の肉を食べてはいけない」としたのです。ヨハネ黙示録の2:14,20でも偶像に供えられた肉を食べることはみだらな行いとしています。

 使徒言行録における教会の取り決めから答えるならば「偶像に献げられた動物の肉を食べてはいけない」となるでしょう。しかし、4節からパウロは「唯一の神以外の神はない」とし8節では【わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。】(8)と語ったのです。

 

2:  兄弟をつまずかせないために

 パウロは8節に続けて、9節でこのように言います。【ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。】(9)何を食べても、そこから何かを得て、何を失うというわけでもない。しかし、その自由な態度が弱い人々を罪に誘うこと、躓かせることがあるのです。

12節からはこのように言います。【このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。】(12-13

パウロは、弱い者もまた、キリストによる兄弟であり、その者たちに目を向けること、配慮することを教えます。パウロは、隣人、兄弟姉妹を傷つけないために強い者が弱い者となることを教えているのです。

 

3:  知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造り上げる

パウロは知識を持つ者に対して、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と愛が人間を、そして教会を造り上げることを教えました。3節ではこのように言います。【神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。】(3)「神を愛する人が神を知っている」のではなく「神に知られている」のです。救いの主導権は神様にあります。愛することはへりくだること、強い者が弱い者となることでもあります。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。】(フィリピ2:6-8)知識は人を高ぶらせる。しかし、愛は人をへりくだらせる。パウロは、知識を持っているという者にへりくだることを教えているのです。

 

4: 教会と異教文化の境界の問題

偶像に献げられた肉を食べることは、キリスト者が自分たちを取り囲む文化、社会とどこまで調和できるのか。その境界線をどこに引くべきなのかという問題となります。キリストに従って生きるために、どのような生活をするべきなのか、自分の生活をどのように再構築するのかという問題です。先祖を崇拝するための伝統的な食事はやめなければならないのか。それは伝統や文化を大切にすることとして受け入れるのか。それとも偶像礼拝の一種として受け入れないのか。

 現代の日本において多くの人々が信仰するのは、科学、経済、物質、力と言うことができるでしょう。これらは宗教ではないと考えられながらも、私たちの考え方や生活、生き方の根幹にかかわり、私たちの生活に大きく影響を与えているのです。

私たちは、キリストに出会い、キリストを信じて生きる者として「この世」で生きるのです。その生活の中で、何を大切にして、何を一番にして生きるのか。どこまでが許されて、どこまでが許されないのか、考えることはとても重要なことです。

 

5: 経済格差の問題 

 もう一つの問題として、教会内の経済格差という問題があったとされます。コリントにおいて、偶像に供えられた肉をいつも食べることができたのは豊かな者たちであった。豊かな者が高い教育を受け、冷静に肉を食べること、食べないことの意味を考え、最終的に信仰には意味をなさないという結論を出すことができたのです。つまりこの偶像に供えられた肉を食べることは、富んでいる者が、その知恵をもって貧しい者を裁くという問題に発展していたのです。

 

パウロは9節で【ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。】(8:9)と教えました。(笠井元)