1: 他者を断罪する「正しさ」
今日の箇所は、ユダヤのサンヘドリン・最高法院でのイエス様の裁判の場面となります。裁判とは、本来「法律の規定に従って、公平に正・不正を判定することであり、そこでは真実が明らかにされるところ」となります。真実を明らかにして、問題を解決する。それが裁判のはずです。しかし、このときのイエス様の裁判においては、すでに最初からその結論は「イエスを死刑にする」と決まっていました。これほど無駄で、意味のない裁判はないでしょう。なぜ、このような無意味な裁判を行ったのでしょうか。それはユダヤの大祭司をはじめとする最高法院の人々が、「自分は正しく、イエスは間違っている」ということを、人々に認めさせるためでした。人々は、自分は正しいということを認めさせるために、イエス・キリスト、神の子を裁いたのです。
私たちは「裁判」という言葉になると、自分からは少し遠いようなものと感じるかもしれません。ただ、自分を正しいとするために、他者を裁くということは、日常生活の様々な場面で、同じように行われているのではないでしょうか。特に、自分の方が正しいと思いこむような関係の時は、このようなことがたくさん起こります。それこそ、裁判官と被疑者という関係でいえば、普通に考えれば裁判官の方が正しいと思うでしょう。もっと身近に見れば、親と子、教師と生徒、高齢者と若輩者、先輩と後輩、経験者と未経験者等々・・・このような関係の中では、自分の方が正しいと思い込んでしまうことがあるのです。
私たちが知恵を持つこと、知識を得ることは、とても大切なことです。「知恵」は、神様から頂く大切な賜物です。しかし、この人間の「知恵」というものは、時に「高慢」という誘惑として働くのです。そして、この高慢は、「自分は正しい。他者は間違っている」と考えさせるものとなり、他者を断罪するものとなってしまうのです。
今日の箇所において、大祭司をはじめとする、最高法院の人々は、神の子イエス様を裁いていたのです。しかし、当の本人は、「自分は間違っている」と思っていたでしょうか。人々は、「イエスは律法を犯し、群衆を扇動する危険な存在だ。律法を守るため、ここまで継承されてきたユダヤの信仰を守るため、自分たちを守るため、群衆を守るためにも、イエスは排除しなければならない。」人々はむしろ、イエス様を死刑とすることが正しいことだと思っていたのではないでしょうか。そして、その正しさが、神の子、真実で正しい方を断罪するのです。
2: へりくだり表された「正しさ」
この裁判において、イエス様は、何も答えませんでした。61節に、二人の人がイエス様の言葉をとって【「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言った」】(マタイ26:61)と訴えたのでした。 確かに、イエス様は、ヨハネによる福音書2:19節において【ヨハネ2:19 「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」】と語られました。しかし、この訴えは、イエス様の意図とはまったく違い、言葉尻を捕らえた卑劣な言葉なのです。大祭司カイアファはこの言葉を受けて、【「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」】(マタイ26:62)と尋ねました。 それでも、イエス様は黙って、何も答えられなかったのです。それが大祭司カイアファの言うように、どれほど不利な証言であったとしても、イエス様は何も語られなかったのでした。
このイエス様の姿に、イザヤ書53章における、「苦難の僕」の姿を見るのです。
【わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。】(イザヤ53:6-8)
イエス様は、不利な証言、イザヤ書で言えば、「罪を負わせられ、苦役を課せられる中」にあっても、屠り場に引かれる、小羊のように、口を開かなかったのです。これが、無言の中でどこまでもへりくだり歩まれた、救い主の姿。それこそ、偽証し、罪にまみれた人間にまでもへりくだられ、最終的にその命が奪い取られる中で、人々の過ち、背き、咎を担い、歩まれた姿なのです。
神様は自らの正しさをこのへりくだりの姿で表されたのです。高慢に生きる中で、他者を断罪することで自分の正しさを表そうとする人間に対して、イエス・キリストはどこまでもへりくだられた。その人間にへりくだる姿をもって、イエス・キリストは神様の本当の正しさ、正義と慈しみを表されたのです。
3: 神様の前にあって語る言葉
続けて大祭司はイエス様にこのように尋ねたのでした。【「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」】(マタイ26:63)この大祭司の言葉に、ついにイエス様は口を開くのです。【「それは、あなたが言ったことです。」】(マタイ26:64)
「イエスは神の子、メシアである」。この言葉は、マタイ16:16においてペトロが語った言葉でもあります。マタイ16章では、【イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。】(マタイ16:15-16)とあります。「あなたは神の子、メシアである」。この言葉にイエス様は「それは、その通りだ」と答えられたのです。これがイエス・キリストの、唯一語るべき言葉であったのです。「イエスは、神の子メシアである」。Ⅰコリント12:3では、このように言われました。【ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。】(Ⅰコリント12:3)
「イエスは主である」。これこそ、キリスト者の信仰告白です。この大祭司の言葉を肯定することは、自分を死に陥れる危険な言葉であることは、イエス様ご自身理解していたでしょう。しかし、イエス様が語る言葉は、自分の危険や恐れを中心とした言葉ではなく、どこまでも神様に従う中での言葉であったのです。ここに本当の正しさを教えられるのです。
私たちが語る正しい言葉。それは神様の顔を見て、神様の前に立ち語る言葉である時に、本当の正しい言葉とされるのです。イエス様は、このことを実行された。どれほど侮辱されても、間違っていると言われても、人間に不当に裁かれようとも、イエス様は神様の前に立っていたのです。ですから、語るべき言葉はただ一つ。神様の前に正しい言葉、「イエスが神の子、メシア」であるという言葉を語られたのでした。
4: 裁き主イエス・キリスト
続けてイエス様は言われました。【「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」】(マタイ26:64)
これは、詩編とダニエル書からの引用の言葉となります。イエス様は、このとき裁かれる者、屈辱と苦難にある者、そして最終的に十字架で死なれる者でした。しかし、イエス様は、この十字架の後、復活して来られる。それは、神の右に座り、神様の権威をもって来られる、裁き主として来られる、ことを語られたのです。イエス様は人間の自分勝手な正しさによって裁かれた。しかし、この後イエス・キリストは神の正しさをもって裁く者として来られるのです。
私たちは、イエス・キリストに裁かれる者です。そして、私たちの人間同士の関係も、神様の前に立ち、神様に裁かれる者として生きる者としての関係なのです。
このイエス・キリストの裁きに耐えられる者は一人もいない。私たちは、自分が何かをしたから、何かを持っているからとして、イエス・キリストの裁きに耐えられることはありません。唯一、私たちがイエス・キリストの裁きに耐えられるとすれば、それはただ、私たちのために裁かれたイエス・キリストを信じることです。今日の箇所で、イエス様は、裁かれる者となられました。それは、私たちの罪のため、本来、裁かれるわたしたちのために、イエス・キリストが裁かれたのです。裁き主イエス・キリストは、それこそ、裁く方であり、同時に私たちに代わり、裁きを受ける方となってくださったのです。
もう一つ言うならば、そのイエス・キリストが、執り成しの方、弁護者としてもおられるということです。ここに、神様の真実、正しさと慈しみを見るのです。
5: へりくだり生きる
最後に、この救いの御業を受けて生きる、生き方について共に考えていきたいと思います。イエス・キリストは、どれほど偽証されても、どれほど殴られても、唾を吐きかけられても、そして、その命を奪われても、神様の前にへりくだり歩み続かれたのです。ここに「イエスは神の子、メシアである」と告白する者としての生き方を見るのです。私たちはただ「イエスは神の子、メシアである」と語るだけではなく、その言葉を持って、イエスを主として生きていきたい。それが信仰者の生き方です。その道は、どのような時も、他の何者でもなく、ただ神様の御心にへりくだる道です。神様にへりくだり生きる道は、イエス・キリストが生きた十字架の道、苦難と苦しみの道でもあります。そして同時にそれは、どれほどの困難があっても、喜びの絶えない道でもあるのです。
私たちが生きている、この世には多くの困難があり、また誘惑があります。時に、目の前にある恐怖や困難、今で言えば、新型コロナウイルスの感染拡大により、同じ場所で礼拝を持つことができないことや、それに対する不安や恐怖があります。しかし、そのような中だからこそ、私たちは、ただただ「イエスは主である」と告白する道を選び取っていきたいと思うのです。そして、この信仰によって一つにされていきましょう。私たちは、どのようなときも、共にいてくださるイエス様を、「神の子、メシア・キリスト」と告白し、へりくだり、イエス・キリストによる希望と愛の道を信じて歩んでいきたいと思います。(笠井元)