1: 8章 「偶像に供えられた肉」の問題から
パウロは8章で「偶像に供えられた肉」について語りました。コリントの人々は、自分たちは知識を持つ者だと考えており、知識を持たない者が知識を持つようになることを求めていました。キリスト者として新しく生きるための知識は必要です。コリントの人々の間違っていた点は「共に福音を喜ぶ」のではな「自分の知識を誇る」のための行為であり、隣人を躓かせる行為となっていたことです。
パウロはこのように教えています。【それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。】(Ⅰコリント8:13)、【信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。】(ローマ14:1-3)
パウロは「自分を中心に考えるのではなく、神様に愛されている者として、隣人に目を向け、隣人を愛して生きること」を教えているのです。
2: パウロの使徒性
コリントにはパウロを批判する人がいました。何を批判していたのかを推測すると、4節以下を見る限り、食べたり飲んだりしないこと、結婚しないこと、報酬を受けないことなど、使徒としての権利を行使しないことから、パウロの使徒性に対して疑念が生まれていたと考えられます。当時の教師は裕福な者から経済的に援助を受けていました。パウロが自分で働いていたことは教師としての資質を持っていないから援助を受けられないと思われたのです。
パウロは自分はキリストの使徒であることを主張します。(Ⅰコリント9:1-2)パウロは自分が使徒である証拠として、一つは自分が復活の主イエスを見たことを示します。(Ⅰコリント15:3-10)パウロは、ユダヤ教徒としてキリスト者を迫害していた中で、ダマスコへの道で復活のイエス・キリストに出会ったのです。
もう一つの証拠としてと、パウロは1-2節において、このコリントの教会の人々が主イエスに繋がっていること自体が証拠だとします。コリントの教会があること、コリントの人々が主イエスに出会ったこと自体が、自分が使徒として認められる出来事であり、生きた証拠なのです。
3: 使徒の権利を持つ中で選んだ道 4-15
パウロは4節からいくつかの例を用いて、使徒である自分が持つべき権利について語ります。7-8節では「戦争に行くこと」「ぶどうを作ること」「羊を飼うこと」を用いて報酬を求めずに働く者はいないことを語り、9節では律法から報酬を要求することの正当性を語ります。
パウロは、自分は使徒として報酬をもらう権利を持っていることを語ります。そのうえで12節後半から「自分たちはこの権利を用いない」と語るのです。パウロは福音のために、自分たちが持つこの使徒としての権利を用いないとするのです。これがパウロが自由の中で選んだ道です。
コリントの教会の人々はキリストに出会った者として、「自分たちは自由だ」「何をしても問題ない」として、みだらな行いにおぼれていたのです。(Ⅰコリント6:9-10,18-20)。コリントの人々は、自由をもって自分のために生きていたのです。パウロは、自由をもって、使徒としての権利を放棄することを選んだのです。パウロはなによりも神様のことを求め、福音のため働き、隣人の躓きとならないで、隣人が神様と出会う道を選んだのです。
4: キリストに仕える道を選び取る
私たちは自分がどのように生きるべきか考えたいと思います。使徒という言葉の定義は難しいものですが、復活の主イエス・キリストの証人であるという意味で捉えるならば、基本的にはすべてのクリスチャンがその権利を持つ者となるでしょう。福音宣教の働きによって報酬を得る権利を持つとなると、また別になるかもしれません。
どちらにしても、パウロはコリントの人々、そして私たちに教えていることは、キリストに出会ったことで与えられた自由をもって、自分のためではなく、他者に仕える姿勢を教えているのです。私たちが、復活の主イエスに出会う時、私たちは自由になるのです。私たちはその自由をもってキリストに仕える道、隣人が福音に出会うための道を選び取っていきたいと思います。(笠井元)