導入:「ヴィジョンを持つこと」
今読んでいただいたマタイ17:9には、「一同が山を下りるとき、イエスは『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』」と言われています。「今見たこと」と翻訳された言葉(to horama)は、「ヴィジョン」(NRS、KJV)という意味です。皆さんは「テレ・ビジョン」というような日常語で接する言葉ですが、あなたの人生の夢、あなたの人生のヴィジョンは何か? この教会の夢、この教会のヴィジョンは何か?と問われることもあることでしょう。先日2月11日は「建国記念の日」でした。現在の日本の「国」のヴィジョンは、愚かにも古事記・日本書記の天皇「神話」のヴィジョンの上にこの国を建てるというものです。キリスト教会は、「とんでもない!」「神話的天皇制軍国主義が戦争の破滅に導いた歴史への反省がないではないか」ということで、この日を「信教の自由を守る日」としています。どのような信仰であるかは問わず、信じないことも含めて、信仰を持つ自由と政治権力の分離を求める日として、バプテストは政教分離の国のヴィジョンを描いているわけです。福岡に住む皆さんには縁遠いとは思いますが、先日、東京都の明治神宮外苑の樹木を約千本伐採して再開発しようとする動きが報じられました。災害時の広域避難所もなくして経済効率を追求する、市民たちも大切にしてきた緑地を切り崩す、これが日本社会の一つの動きなのです。最近は憲法改悪を狙い、天皇を元首にし、あの「不戦の誓い」の憲法第9条を変えようとする力が大きく台頭してきました。米国と軍事同盟を結び、集団的自衛権を導入した新安保法制は憲法違反であるとして私は、国を訴えており、その控訴審の意見陳述を先日書いて弁護士に送りました。しかし、9日に予定されていた控訴審第一期日はコロナウイルス感染拡大のため延期になってしまいました。軍事力に対抗する軍事力ではない、外交的「平和」を求めるヴィジョンをイエス様から教えられて、私なりに訴えています。皆さんは、ご自分の人生、教会また社会についてどのようなヴィジョンを描いているでしょうか?コロナウイルス感染の恐れがヴィジョンを持つことさえできない皆さんにしているでしょうか?絶望と孤独、暗闇、そして死が最後のヴィジョンでしょうか?
1.聖書箇所の文脈:キリストの十字架と復活、神の僕としての神のみ子の道
先月の1月9日の主日礼拝では、イエス様は、その公生涯の初めにバプテスマを受けられたことを聞きました。イエス様が私たちと連帯して神の僕の道を歩み出し、身を低くされたその時にこそ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聴かれました。それは「神のみ子」としての自覚が与えられたことでした。そしてそのようにイエス様が私たちと連帯して僕の道を歩むことが、「すべて義を成就すること、満たすことであり、」「わたしたちを自由にすること」であったと聞きました。
興味深いことに、今日読んでいるいわゆる「山上の変貌」の物語においても「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という同じ言葉が繰り返されています。しかし、今度は弟子たちもこの声を聞きまして、さらに、「これに聞け」という呼びかけが付け加えられています。
マタイ福音書の16章の13節~17章9節は、丁度マタイ福音書の真中に位置しています。いわばイエス様の生涯の分岐点です。ペトロの信仰告白の後、16:21は「このときから、イエスは、(口語訳は「イエス・キリストは」の写本を採用していますが)、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。」と言われ、十字架への道行を開始されたわけです。しかし、弟子たちは、まさか、キリスト・イエスが苦難を受け、殺されることなど思いもせず、何が何だか分からずに、謎に包まれていたと思います。ペトロなどは「主と、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(マタイ16:22)などと言い出しました。イエス様から、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16:23)と叱られてしまいました。もうペトロさんは何が何だか分からなくなってしまったに違いありません。たぶん、他の弟子たちも同じような暗闇に覆われた感じであっと思われます。
2.一瞬の輝きのヴィジョン
そのような暗闇の中で、聖書は、十字架につけられるイエスこそキリスト、神の子であることを一瞬垣間見せているのです。コロナウイルス感染拡大の中で、感染者の数や病床使用率や重傷者による病床使用率の数字に心を痛め、他方、敵基地攻撃能力の強化とか軍事予算の増加とか、沖縄琉球弧の米軍と自衛隊による基地化が進んでいます。ミャンマーの軍事政権の動きやウクライナの危機も気になります。また、個々人が分断されて、若者たちの酷い貧困化も広がっています。政府によるデジタル管理などが進むでしょう。そのような闇の広がりの中で、当時、弟子たちが狼狽えるたように、信仰者の「狼狽え」の中でこの山上の変貌の物語が起こります。これはいのちと愛の勝利である「復活」の先取り、予表(しるし)なのです。私たちの不信仰、貧しい人間関係、被造世界の乱開発などが正され、「変貌」する希望のヴィジョンです。
今まさに、イエス様が十字架への苦難の道を予告され、弟子たちは狼狽え、何がなんだか分からなくなっている。その時、イエス様は弟子の三羽烏、ペトロさんと、ヤコブさんと、ヨハネさんを連れて高い山に登りました。すると、主イエスの「姿」「かたち」が「彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」と言います。マルコ9:3では「この世のどんなさらし職人の腕にも及ばぬほど白くなった」と表現されています。マルコによる福音書と比べると太陽と光が照り、また、イエス様のお顔が輝くということが強調されています。すると、ヘブライ語(旧約)聖書の2大人物である、モーセさんとエリヤさんが現れイエス様と語っておられた!と言います。イスラエルの信仰者たちの希望はこのイエス様にかかっているということでしょう。「光輝く雲が彼らを覆った」とあります。わが国でも「出雲」の国の神話があり、雲は神の現臨の象徴です。黒雲というのではなく、孫悟空の「筋斗(きんと)雲」のような光輝く雲でした。イエス様とはだれであられるのかが示されているのです。
3.「これに聞け」
すると「雲の中から声が聞こえました」。この声の内容は説教の出だしでいいましたように、イエス様のバプテスマの際の天からの声そのものの繰り返しです。招きの言葉で聞いた、詩編2:7の「王の即位」の詩「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。」とイザヤ42:1「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の審きを導き出す。」を合わせたものであると言われています。ただし、あの時はイエス様だけに聞こえた声でしたが、いまや、弟子たちにも聞こえ、さらに、「これに聞け」、イエス様に聴け、十字架で殺され、三日目に死者の中から引き上げられるイエス様に聴けという言葉がつけ加えられているのです。ヴィジョンについて触れましたが、実は、この声、言葉の方がはるかに重要なのでしょう。私たちは誰の声に従うのでしょうか! 十字架に至るまで孤独を味わい、苦難を受けられ、裏切られ、しかし、死者の中から引き挙げられたイエス様に聴くのです。
4.主イエス様が近づき、手を触れる
弟子たち、私たちはあくまで受け身です。イエス様ご自身の方から「近づいて来られ、弟子たちに手を触れられた」とある通りです。(参照マタイ28:18)。最近は、「ソーシャル・ディスタンスを取れ」などと言われていますが、イエス様は皆さんに近づき、そっと手を触れてくださるのです。私たちは「身体的距離」(フィジカル・ディスタンス)は取ります。コロナウイルス感染の拡大の中で安易なニュースや言葉にすがってはなりません。しかし、人は交わりの中で、他者と共に、祈られ、祈って生きるものです。「交わり」、「関係」は決してなくなりはしないのです。主イエスは「近づき、彼らに手を触れた」。
5.起きなさい。恐れることはない。
光輝く雲からの声ではく、今度はイエス様ご自身が言われます。「起きなさい。恐れることはない。」厳密に翻訳すれば「引き上げられなさい」(egerthēte)であり、これは、共観福音書やパウロなどで、復活のために用いられる原語です。ヨハネ福音書が用いる「復活」は「アナスタシス」ですが、「再び立つ」という意味です。イエス様がご自分で立ち上がるというより、父なる神がイエス様を死者の中から「立ち上がらせる」という言葉の方がより古い表現です。自分で寝て、自分で起きるのではないのです。神様に委ねて眠り、朝、起こされるのです。あくまでも「受け身」です。同じ言葉が9節に用いられていますが、新共同訳は「復活」と翻訳しており、多少、勇み足です。雲からではなく、イエス様自身が言われます。死者から引き上げられた私の命と愛に与りなさい。「恐れることはない。」困難な道を避けることではなく、神の僕の道を歩むことこそ命と愛に与る道です。
結語:
私たちは確かに、困難、孤独、病い、貧しさに加えてパンデミックを経験しています。しかし、十字架で苦しむ神の僕イエスは、死者の中から引き上げられ、命と愛の勝利者となり、その命と愛を私、皆さんに分かち合われるのです。私たちはどのようなヴィジョンを見るでしょうか?それはほんの一瞬のことであったとしても、どのような困難に直面しているとしても、光輝くイエス様のヴィジョンを見ることができるのです。私たちはどれの声に聴くのでしょうか? 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われたように、イエス様のみ声に聞くことができるのです。その時、「起きなさい。恐れることはない」という励ましの言葉をも聴くことでしょう。(松見俊)