導入:「ヴィジョンを持つこと」
1.キリストの十字架と復活、神の僕と神のみ子の道
先月9日の礼拝では、イエス様は、その公生涯の初めにバプテスマを受けられたことに言及しました。イエス様が私たちと連帯して神の僕の道を歩み出し、身を低くされたその時にこそ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聴かれました。「山上の変貌」の物語においても「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という同じ言葉が繰り返されて、さらに、「これに聞け」という呼びかけが加えられています。
2.一瞬の輝きのヴィジョン
聖書は、十字架につけられるイエスこそキリスト、神の子であることを一瞬垣間見せているのです。当時、キリストの苦難の予告に弟子たちが狼狽えるたように、闇の広がりの中で、信仰者の狼狽えの中でこの山上の変貌の物語が起こります。これはいのちと愛の勝利である「復活」の先取り、予表なのです。私たちの不信仰、貧しい人間関係、被造世界の乱開発などが正され、「変貌」する希望のヴィジョンです。
3.「これに聞け」
すると「雲の中から声が聞こえました」。この声の内容は詩編2:7の「王の即位」の詩「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。」とイザヤ42:1「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の審きを導き出す。」を合わせたものでした。ヴィジョンについて触れましたが、実は、この声、「言葉」の方がはるかに重要なのです。私たちは誰の声に従うのでしょうか!十字架に至るまで孤独を味わい、苦難を受けられ、裏切られ、しかし、死者の中から引き挙げられたイエス様に聴きましょう。
4.主イエス様が近づき、手を触れる
弟子たちは受け身です。イエス様ご自身の方から「近づいて来られ、弟子たちに手を触れられた」とある通りです。
5.起きなさい。恐れることはない。
今度は主イエスご自身が語ります。「起きなさい。恐れることはない。」厳密に翻訳すれば「引き上げられなさい」(egerthēte)です。自分で寝て、自分で起きるのではないのです。あくまでも「受け身」です。
結語:私たちは困難、孤独、病い、貧しさに加えてパンデミックを経験しています。しかし、十字架で苦しむ神の僕イエスは、死者の中から引き上げられ、命と愛の勝利者となり、その命と愛を私、皆さんに分かち合われるのです。(松見 俊)