1: イエスに従ったペトロ
今日の箇所はペトロがイエス様を三度知らないと言い、イエス様を裏切った場面として、とても有名な箇所となります。しかし、少し前の56節では【弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。】(26:56)とあり、そのあと58節では【ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。】(マタイ26:58)とあるのです。イエス様がイスカリオテのユダに裏切られ、祭司長たちや群衆によって捕えられていくなか、弟子たちは皆逃げ出したのです。その中で「遠く離れて」ですが、ペトロはイエスさまに従っていったのです。ここでの従ったという言葉は、マタイの4章において、ペトロとアンデレがイエス様に従い歩みだしたときのイエス様の招きの言葉、【「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」】(マタイ4:19)と語りかけられた時の言葉と同じ言葉となります。つまり、この時、弟子たちが皆イエス様を見捨て逃げる中、ペトロはイエス様の弟子として、「網」を捨て、これまでの自分の持っていたすべてを投げ捨てて、イエス様に従った時と同じように、自分の人生をかけて、従い、大祭司の屋敷へと進んでいったのでした。ここでペトロは、以前に【「たとえみんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」】(26:33)と言い切ったように、確かにすべての弟子たちが逃げだした中でも、ペトロだけは命を懸けて従ったのです。
私たちは今日の箇所を読むときに、どちらかと言えば「ペトロは、威勢はいいけど、結局そんな力はない、口だけの人だな」と思ってしまうことがあるかもしれません。しかし、ペトロはすべての弟子たちが逃げ出す中、自らが宣言したように、イエス様に従ったのです。自分の人生をかけて、これまで持っていたすべて捨ててでも従ったように、ペトロはイエス様についていったのでした。
2: 誘惑の恐ろしさ
今日の箇所は、それほどの強い思いを持っていても、それでも「イエス様を知らない」と三度も言ってしまったペトロの姿なのです。ペトロは命をかけてでも、イエス様に従おうとしていた。しかし、それでも「イエス様を知らない」と三度も言ったのです。ここにこの世の誘惑の脅威と、人間の限界とを見るのです。ペトロは一人の女中に【「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」】(69)と言われました。これに対してペトロは【「何のことを言っているのか、わたしには分からない」】(70)と答えました。このときペトロはイエス様のことを「知らない」というよりも弱い表現として「わたしには分からない」と言ったのです。しかし、二回目には【「この人はナザレのイエスと一緒にいました」】(71)と言われたときには、【「そんな人は知らない」と誓って打ち消した】(72)のです。ここでペトロは「知らない」と誓い始めたのです。この言葉は、一回目よりもだいぶ強く、イエス様との関係を否定しているのです。そして、三回目には【「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」】(73)と言われたときには、【ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。】(74)とあるように、今度はイエス様を呪う言葉を口にしながら「そんな人は知らない」と誓ったのです。ペトロは三回目には「呪いの言葉」を言いだし、イエス様との関係を完全に断ち切ったのでした。
このペトロの姿を見ると、最初の小さなイエス様との関係の否定から、最終的にイエス様との関係を完全に断ち切ることへと陥っていったという姿を見るのです。命を懸けても従いだしたペトロは、このように少しずつ、何度も問いかけられる中で、イエス様との関係を断ち切っていったのです。ここに誘惑の恐ろしさを見るのです。誘惑は、些細な事、小さなことから、人間が神様を裏切る者となるように誘ってくるのです。それこそ、ペトロも、最初から捕えられ、群衆の前、そしてイエス様の前に突き出されていれば、一緒に死ぬ道を選んだかもしれないとも思うのです。しかし、最初は小さな問いがあり、その問いにペトロは「わからない」と答えた。イエス様との関係を否定してはいないのです。しかし、そこからイエス様との関係を断ち切る道へと進んだのです。誘惑は、強い決心をしたペトロの、心の中にある小さな心の隙間の中に入ってきた。そしてペトロとイエス様との関係を断ち切っていったのです。
私たちが生きるこの日常の社会においては、まさにこのような小さな誘惑があふれているのです。誘惑は、「これくらいなら大丈夫」「小さなことだから」という思い、その小さなことから、私たちを神様から離していくのです。そのような心の隙間に入ってきて、そこから私たちと神様を切り離していくのです。私たちは、この誘惑の渦のような社会の中に置かれているのです。
3: 変わることのない神の愛
今日の箇所では、その誘惑に惑わされ、ペトロはイエス様を「知らない」と言い、呪い、その関係を断ち切っていったのです。これが人間の限界であり、弱さなのです。このときペトロは、イエス様を三度も「知らない」と言い、関係を断ち切りました。そのとき、鶏が鳴き、イエス様の言葉を思い出したのです。【ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。】(75)この時、このイエス様の言葉がなければ、ペトロはイエス様のもとへと戻ることはなかったでしょう。ペトロはこのイエス様の言葉を思い起こすことによって、自分の弱さ、罪ある姿に気づかされた。そして同時に、そのことを知っていながらも弟子として共にいてくださり、愛していて下さったイエス様の愛を知ったのです。ペトロは、イエス様を呪い「知らない」というような自分を、それでもその自分を愛してくださっているイエス・キリストの愛にもう一度出会ったのです。
私たちは日常生活において、何度イエス様を「知らない」と言っているでしょうか。何度イエス様との関係を否定しているでしょうか。私たちはその自分の弱さにぶつかるときに、何を思っているでしょうか。困難にぶつかる中、人間関係がうまくいかない中、病に出会う中、不安や恐れを抱くかな。そのようなときに、イエス様との関係を断ち切っていることがあるのではないでしょうか。この世界で生きる時に、私たちは何度もイエス様を裏切り、「自分は弱い人間だ・・・」「自分には信仰がない・・・」と思うかもしれません。この世の誘惑は、そのような思いを持たせ、私たちが神様から離れていくように働いているのです。「神様に従って生きることができない。いつもイエス様を裏切ってしまっている」・・・「だからもう神様から離れてしまおう」とすることが、誘惑の道なのです。
イエス・キリストがペトロに教えられたのは、「それでも私はあなたを愛している。」「あなたが何をしようとも、私があなたを愛している」「あなたが何もできなくても・・・わたしがあなたを愛している。このことは変わることはない」と教えられているのです。これこそが、イエス・キリストの十字架を通して人間に与えられた神様の愛なのです。
4: 私たちを知っていて下さる方
【ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。】(75)ペトロはイエス様の言葉を思い出して、激しく泣いたのです。この涙は、「イエス様を裏切ってしまった」という悲しみの涙かもしれません。しかし、同時にそれは「それでもイエス様は自分を愛されている」「そのために言葉を残してくださった」という、まさにイエス・キリストによる愛を受けた、喜びの涙だったのではないでしょうか。ペトロは、イエス様の御言葉によって、自分の弱さを教えられ、それでも自分を愛してくださっているイエス・キリストの愛に触れたのでした。私たちの人生はまさに困難と誘惑の嵐です。私たちは、何度も「イエス様など知らない」と言い、イエス様を呪い、その関係を断ち切っているかもしれません。そして、それでもなお、そのような私たちの弱さを知り、私たちのことを愛してくださっているイエス・キリストがおられるのです。
ペトロはイエス様のこと「知らない」と言いました。しかし、そのペトロのことをイエス様は離すことはないのです。イエス・キリストはペトロを「知っていてくださる」のです。同じように、イエス様は、私たちを放すことはない、私たちを忘れることはないのです。どのような時も、私たちを愛して、私たちを「知っていて下さる」のです。私たちはこのことを覚えていましょう。この神様の愛に留まりたいと思うのです。
私たちの教会の今年度の標語は「神の愛の下に留まる」です。私たちは、まさにこの言葉の通り、どのような時にあっても、私たちを知り、私たちを愛してくださっているという、この神様の愛に留まり続けたいと思います。今年度の主題聖句を前後を含めて読みたいと思います。【そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。】(ローマ5:3-5)共に、神様の愛に留まり続けていきましょう。
(笠井元)