1: パウロにとっての報酬 自由と隷属
今日の箇所は18節に「わたしの報酬とは何でしょうか」とあるように、パウロにとっての報酬について語ります。パウロにとっての報酬とは、福音を告げ知らせるときに「無報酬」で伝えること、本来持つ権利を用いないということです。
パウロは自由のうちに自分の意志で、キリストに従う道を選んだのでした。自由をもって奴隷、隷属する者となった。これがパウロの選んだ道です。そして、この道を選ぶことが許されていることが、パウロにとっての報酬だと言うのです。私たちが神様を信じて生きる道とは、神様に一方的に愛され救いを得た道です。だからこそその道は神様の愛を伝える道でありたいと思うのです。
2: すべては福音のために①
パウロは9章の前半では自分が使徒としての権利を持っていること、しかし、人々がキリストの福音に触れるために、その権利を用いないことを語りました。この9章前半の言葉を受けて、19節で【わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。】(9:19)と語るのです。
パウロは自由の中、すべての人が福音に与るために、すべての人の奴隷となったと語ります。コリントの人々は、「自分は強く知識を持っている、だから弱い人、知識を持っていない人が、自分のようになるものなのだ」と思っていました。パウロは、そのような者たちに、「自分は知識をもって、自由をもって、神様に仕える」「弱いとされる者のようになる」ことを教えているのです。
3: すべては福音のため②
「すべては福音のために」。そのために、ここでは、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法に支配されている人に対しては律法に支配されている人のように、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のように、弱い人に対しては、弱い人のように、すべての人に対してすべてのものなる」ことを語ります。
私はこの言葉を受けて「福音のため」ではなく、ただ「隣人のために隣人のようになる」道にずれていってしまうことがありました。
パウロは「すべての人に対して、すべての人のように」生きることを教えます。それは23節にあるように「福音のためなら、どんなことでもする。」「福音のためなら福音に共にあずかる者となる」と教えているのです。
4: 愛するために節制する 24~27
24節からは、自由に生きる者として、神様に仕えの者となるために節制することの大切さを教えます。自由に生きるとは、自分のしたいことをして、自分の生きたいように生きるのではなく、自分の思いをもって神様の意志に従うことなのです。
ここでは、朽ちる冠のためではなく、朽ちない冠のために、走ることや拳闘から「賞を得るように走りなさい」と教えるのです。パウロは、「朽ちる冠」という「自己実現」や「名誉や誇り」を受け取るためではなく、「朽ちない冠」、福音のために節制することを教えるのです。
神様に仕えること、隣人を愛するためには、自分の時間や体、時には財産を使って、隣人に寄り添うことで、隣人を愛することとなります。パウロは、そのように節制すること、自分の得たいものを捨ててでも、隣人を愛する道を歩むことを教えているのです。
それこそ「すべては福音のために」、パウロはコリントでいうところの「強い者」とされる者に「弱い者」となることを教えているのです。(笠井元)