1: ユダの後悔
今日は、イエス様を裏切った、イスカリオテのユダが、自分のしたことに後悔し、最終的に自ら命を絶っていったという場面となります。皆さんはこれまで、自分の人生において、後悔したことはあるでしょうか。そして、その後悔から自分の存在さえも否定してしまう。そのような思いに陥ったことはあるでしょうか。この時、ユダは、自分が行ったことを見返したときに、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(4)と、自分が間違っていたと理解したのです。このイスカリオテのユダが、なぜイエス様を裏切り、祭司長たちに引き渡したのか、その理由ははっきりしとはしていません。
一つには、ユダが社会的な改革を求めていた。ローマに押さえつけられていたイスラエルにダビデのような王、救い主が現れるのを期待して、イエス様についてきていた。しかし、イエス様がそのような道を選んでいかないことを見て、裏切りを考えていったと言われます。また、もう一つには、ユダはお金の管理を任されていたとし、高価な香油をイエス様に注ぐことに憤慨し、しかもそれを受け入れていくイエス様を見ることから、裏切ることを考えたとも言われています。 そのように、ユダがイエス様のことを裏切った理由は様々考えられています。そして今日の箇所では、そのユダが、そのような何らかの理由をもってイエス様を裏切りながらも、それは間違っていたと後悔したということになるのです。
2: 自分を裁いたユダ
イエス様のへの裏切りを後悔したユダは、この自分の間違えをどうにかしようとし、祭司長たちや長老に、イエス様を売り渡した銀貨30枚を返しに行きました。しかし、祭司長たちや長老たちは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」(4)と言い、このユダの行為を受け付けませんでした。そして、ユダは、自分の裏切りの行為をどうすることできず、最終的に、自分の命を絶ってしまったのです。
この時のユダは二つの間違いを犯したのです。一つは、自分で自分を裁いていったということです。確かにユダはイエス様を裏切りました。そしてそのことを後悔したのです。そこからユダは、自分のことを、間違いを犯した人間として、自分で裁いた。自分は生きることのできない、価値のない人間だと考えたのでしょう。わたしたちが覚えておかなければならない一つのことは、どのような行為も、わたしたちは自分で裁くのではないということです。裁き主。それは私たちの主イエス・キリストです。聖書では、この世界には、終わりの時があり、そのときイエス・キリストが再び来られることを教えています。そして、そのときに、イエス・キリストが、私たち人間を裁かれるのです。これは私たちにとって、とても恐ろしいことでもあると同時に、とても安心できることでもあるのです。この世では、多くの冤罪があり、多くの間違った裁きがなされているのです。それは裁判という公の場にあってもですし、もっと身近なところで言えば、大人が子どもを、子どもが大人を、先生が生徒を、生徒が先生を、夫が妻を、妻が夫を、兄弟、友人同士でも、様々な関係において・・・私たちはお互いを、自分勝手なものさしで裁いてしまっているのです。
しかし、イエス様は決して間違えることはない、変な忖度もすることはありません。公平・公正な真実である義と、慈しみのあふれる愛とをもって、裁きを行ってくださるのです。このことは、もちろん恐ろしいことでもありますが、同時に、安心できることでもあるのではないでしょうか。私たちは、様々な間違いを犯します。時に人を傷つけ、それこそ自分をも傷つけてしまいます。しかし、それが本当に間違いなのかどうかは、私たちは自分で裁くのではないのです。それはイエス・キリストに、イエス・キリストの裁きに委ねることなのです。
3: 自分で罪からの回復をしようとしたユダ
そしてユダのもう一つの間違いは、この自分の間違いを、自分の力のみでどうにかしようとした、そして自分の力でどうにかできると思っていたということです。ユダは自分の間違いに後悔しました。もう一人、聖書に描かれている、イエス様を裏切った弟子としてペトロがいます。ペトロはイエス様のことを3度も「知らない」と、最後には呪いの言葉まで言ったのです。ペトロはこの自分の間違いに気づかされたときに、イエス様の言葉を思い出し、激しく泣いたのでした。このあと、ペトロは復活のイエス・キリストに出会っていきます。そして、イエス様のことを知らないと言ってしまった自分さえも愛してくださっているイエス・キリストに出会い、変えられていくのです。ペトロは後悔から、自分で自分を裁くのではなく、イエス・キリストに委ねた。そして、悔い改め、生き方を変えられていったのです。ペトロは、復活のイエス・キリストに出会い、神の変わらぬ愛、赦しに出会っていった。この時ペトロは、自分の力ではどうすることもできませんでした。それは、このイスカリオテのユダと何も変わりはありません。ただ、ペトロは、そんな自分を愛してくださり、自分の間違いを赦してくださっているイエス様に出会っていったのです。
それに対して、ユダは、この間違いを自分の力のみでどうにかしようとしたのです。ユダは、後悔はしたけれど、その生き方は変わっていませんでした。これまでも自分の力で生きてきたように、このときも、自分の力でどうにかしようとしたのです。自分に対してイエス様がどう思ってくださっているのか、自分の間違いをイエス様が赦して下さるのかということを考えるのではなく、ただただ自分で自分の罪をぬぐい消そうとしたのです。
私たちは、間違いを犯します。社会的に罪を犯した場合は、それなりの刑を受けることとなります。そしてその刑が終われば、その罪も終わったこととされるのです。しかし、厳しく言えば、神様の前にあって、罪は消えることはないのです。私たちの一度犯した罪、間違いは決してなくなることはないのです。それこそ、私たちが、そのあとどれほど良いことをしたとしても、私たちがどれほど頑張っても、何をしたとしても、その間違いを犯したという事実は変わることはないのです。こんなに苦しいことはないでしょう。そしてだからこそイスカリオテのユダは自ら命を絶っていったのでした。
4: 罪を覆ってくださった、神の赦し
しかし、だからこそ、この世にイエス様が来られたのです。このような、消えることのない私たちの罪のために、イエス・キリストはこの世に来られ、十字架の上で死に、このイエス・キリストをもって、神様は、私たちの罪を赦されたのです。詩編32編ではこのように詠います。【いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は、夏の日照りにあって衰え果てました。わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました、「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。〔セラ〕】(詩編32:1-5)
詩編32編では、「背きを赦され、罪を覆っていただいた者」、「主に咎を数えられず、心に欺きのない人」と詠います。たちの罪は消えてなくなったのではなく、イエス・キリストが代わりに死に、苦しまれ、その十字架によって、私たちの罪を覆っていただいた。私たちの罪は、イエス・キリストの十字架の死によって、義なる神に赦されたのです。ユダは、自分で自分の罪をどうにかしようとしましたが、何も、どうすることもできなかったのです。その自分の無力さは最終的に絶望へと陥っていった。何もできない。どうすることもできない。何も変えることはできない。大きな罪を前にして、ユダは絶望へと陥っていったのでした。このユダの最大の間違いは、イエス様を祭司長たちに引き渡したことではありません。むしろその罪を自分でどうにかしようとしたこと。ずっと弟子として共にいたイエス様が教えてくださっていた、罪を赦して下さる神様の愛を忘れてしまったこと。そして自分で自分を裁き、絶望していったこと。つまり、手を差し伸べてくださっている、神様との関係を忘れ、神様の愛から離れてしまったということなのです。
皆さんは、どれほどの間違いをし、罪を犯し、どれほどの後悔をしているでしょうか。その中で、自分の力で自分の人生を、なんとか修正できたでしょうか。その間違い、罪を消すことはできたでしょうか。神様は、私たちの罪を赦すため、御子イエス・キリストを十字架へと送られたのです。それこそ、神様は、ご自身が痛み、苦しむことによって、ご自身の御子の死によって、私たちの罪を赦してくださったのです。先ほどの詩編ではこのように言いました。【わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを、赦してくださいました。】(32:5)
私たちが間違いを犯したとき、私たちがすべきことは、自分でその罪をもみ消すことではなく、神様に告白すること。自分の弱さ、間違いを神様に差し出すこと。つまり、神様が私たちを愛してくださり、手を差し伸べてくださっている、その関係に立ち返ることなのです。そしてその自分を愛してくださっている神様の愛、赦しを頂くのです。これが、悔い改めの道です。
5: 神の贖いに信頼して
今日の箇所では、このユダの出来事を、預言者エレミヤを通して語られた神の言葉が実現したとするのです。ユダの裏切りはイエス様を十字架へと向かわせます。ユダの間違った行為が、イエス様を死に向かわせたのです。しかし、その十字架の出来事をもって、神様はすべての人間の罪を赦される出来事を起こされたのです。それこそ、神様はこのユダの罪をも超えて、救いの出来事を起こされていったのでした。私たちは赦されている。私たちは愛されているのです。それは変わることはありません。私たちは、どのような時も、この神様の赦しを信じて歩みたい。贖い主である神様に信頼して、委ねて生きていきたいと思います。(笠井元)