水曜日からレント・受難節が始まっています。受難節とは、イエス・キリストが私たちの罪のために、十字架で苦しみを受け、死なれた、その苦しみを共に覚え、イエス・キリストの死による救いの大きさを覚える時となります。イエス・キリストは私たちのために苦しまれ、その死によって、私たちは救いを得たのです。
1:パウロという人間の弱さ
今日の箇所を見ていく前に、私たちは、その前の段落で、語られていることを、まず見ていきたいと思います。【3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。】(ローマ3:9)【3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。】(ローマ3:19-20)
今日のローマの信徒への手紙の著者である、パウロは、もともと律法を忠実に守る、熱狂的なファリサイ派のユダヤ教徒でした。パウロはユダヤ教を信じ、忠実に律法を守っていました。そのような中で、律法から離れていくように見えたキリスト教徒を迫害したのです。イエス様は、律法を廃止したのではなく、完成されました。そこでは、人間が何かをするのではなく、神様の一方的な愛によって救いを得ていることを教え、その愛を受ける者として、律法の意味をもう一度教えられたのです。
先日から幼稚園の宗教教育では、「神様を愛すること」「隣人を愛すること」についてお話をしています。イエス様は、マタイによる福音書の22章において、律法の専門家に【22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」】(マタイ22:36)と尋ねられたときに、このように答えられました。【22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 22:38 これが最も重要な第一の掟である。 22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」】(マタイ22:37-40)
イエス様は、律法として「あれをしなければならない」、「こういうことはしてはいけない」ということを超えて、まず、「神様を愛すること」、そして「隣人を愛すること」こそが、その土台にあることを教えられた。そして律法とは、その神様を愛するため、隣人を愛するためにあることを教えられたのです。しかし、パウロは、そのイエス様の語られた言葉の真意を聞くことなく、律法を守るという行為を大切にし、律法に従わせようとしてキリスト者を迫害したのでした。このキリスト者を迫害するパウロを見るときに、パウロは、自分自身が完全に律法を守ることができないという、自分の弱さに悩み、苦しんでいた姿を見るのです。パウロは、ステファノをはじめ、多くのキリスト者を迫害し、傷つけていきました。そこには、パウロ自身の中に、自分が、完全に律法を守ることができない者としての弱さがあること、律法を完全には守ることができないという、人間としての限界を感じていたのではないか・・・だからこそ、パウロは、その自分の弱さを受け入れることができないなかで、人々を迫害していたのではないかと思うのです。つまり、他者と比較して、自分の方が、まだ律法を守ることができているとし、他者を排除することで、自己満足をしていたのではないでしょうか。
2: 弱い者を作り出す社会
自分の弱さを知ること。しかしまた、その弱さを受け入れられないとき、私たち人間は「まだ自分の方が・・・」という自分よりも弱い者と比較して、自分のほうがまだ正しいだろうと、その比較から、自分を正しい者としていくのです。弱さをもつ自分を受け入れるため、自分が正しいとするために、さらに弱い立場を作り出す。自分が傷つけられる中、さらに弱い立場の人々を作り出し、傷つけていく。このような考えは、パウロに限ったことではなく、現代社会においてもあるもので、このような考えが、いじめや差別を生み出していくのです。
わたしの父から聞いた話ですが、私の父は沖縄の出身です。父の父、私の祖父も沖縄出身です。父は大学で沖縄から東京に行ったのですが、その時代は、沖縄から日本に来るのにはパスポートが必要であったようで、大学でも差別があったと聞いています。父の時代でもそうであったのですが、それこそ祖父の時代はもっと差別があり、日本人として扱われることなどなく、多くの差別を受けたそうです。この日本での多くの差別を祖父から父は聞いていて、人が人を差別することはしてはいけないと教えられていたのでした。ただ、そんな祖父が、父に向って言った言葉に、沖縄の本島にいた祖父が、それ以外の島にいる人に対する差別の言葉を聞いたことがあったそうでした。島の人とはかかわってはいけないと言われたということでした。父はこの祖父の言葉にひどく傷ついたそうです。このとき、差別を受けた者が、自分より小さい者を作り出し、差別を行う。そのような人間の現実の姿を見せられたということでした。
現在は、ウクライナで戦争が続いています。毎日ニュースとなっています。先日、幼稚園の先生の日誌から知ったのですが、幼稚園の園児が、宗教教育での「隣人を愛する」ということを聞いたあとに、「プーチンさんはウクライナの人の隣人ではない。自分は強いんだーと言いたいのかな。」「先生、プーチンさんに戦争はだめと言ってきて」と言っていたそうです。私たち人間は、弱さを持っているのです。その弱さを受け入れられないとき、自分は正しく、自分は強い者だとしていきます。そして、そのために自分よりも弱い者を作り出すのです。自分が勝ち組になり、負け組を作り出す。これが人間の持つ醜さ、罪ある人間の造り出す社会なのです。それこそ、パウロがキリスト者を迫害する行為も、まさに自分の弱さを抱えきれずに、他者を迫害したのではないかという、そのような姿として見ることができるのです。
3: 無償で義とされる
パウロは、この自らの弱さの告白として、今日の箇所において、【人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている】(ローマ3:23)と語ります。すべての人が罪の下にあるのです。しかし、続けて、パウロはこのように語りました。【3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。】(ローマ3:21-24)
神様はイエス・キリストの十字架という一方的な恵みにより、私たち人間を義としてくださいました。私たち人間は、すべての者が罪の下に置かれていた。しかし、イエス・キリストの十字架により、すべての者が、神の恵みによって義とされた。罪の下に置かれていた私たち人間は。イエス・キリストの死によって、すべての者が神様の救いの下に置かれる者となったのです。これが神様が私たちに与えられた救いの出来事です。私たちすべての人間が神様の愛、救いの下に置かれている者とされたのです。この神の愛に置かれているという点で、すべての者が同じです。それこそどれほど優れた能力をもっていたとしても、どれだけ弱い者とされたとしても、どちらにしても、人間は誰もが、同じ立場、神様の愛の下に置かれているのです。
人と比べて、どれほど自分を正しい者としても、逆に、人と比較して、自分はダメな人間だと自分の存在を否定してしまうようなことがあったとしても、私たち人間は、神様の前に、愛されているという同じところに立っているのです。神様は、イエス・キリストの十字架を通して、自らが、私たち人間と同じ罪の下に立たれ、その裁きとしての死を自らが受け取られたのです。神様は、イエス・キリストの十字架という出来事によって、私たちを、神の正しい裁きと愛をもって、人間を無償で義とされたのです。私たちすべての人間は、神様のイエス・キリストの十字架という御業をもって、「尊い存在」とされた。神様は私たちを愛してくださっているのです。これが神様の愛による、救いの出来事なのです。
4: 弱さの中で生きる
神様は、弱さをもつ私たちを愛してくださいました。私たちは、この神様が日々、愛を注いでくださる中にあって、どのように生きることができるでしょうか。私は、自分を見るときに、神様の愛を受けながらも、日々の生活の中では、時に、神様を裏切り、罪の中に生きてしまう。そのような弱さにおぼれる日々を見るのです。それこそ自分と人を比べ、差別し、人を傷つけて、自分を傷つけてしまう。そのようなことを続けている自分を見るのです。
私たち人間は、この世に生きる限り、弱さを持つ者であり、完全に清く、正しく生きることができるようになるわけではありません。それは、このイエス・キリストによる神様の愛に触れてもです。しかし、だからこそ、私たちは、自分の力で何かを成し遂げていくのではなく、ただ神様に委ねるということを必要とし、神様に助けを求め続けていく必要があるのです。神様は、そのような私たちに、御言葉を与え、礼拝を与え、祈りを与え、賛美を与えてくださる。そして、私たちと共に生きて、祈っていてくださるのです。神様は、人間の弱さ、罪に、忍耐され、イエス・キリストによる恵みを通して、私たちを愛し続けてくださっているのです。私たちは、この神様の恵みを受け取り、神様の御言葉を携えて歩んでいきたいと思います。私たちは、神様の恵み、この福音を、神様の御言葉から聞き、そして、日々の生活の中で、信仰を受け歩んでいきたいと思います。(笠井元)