1: パウロの弱さ
ローマ書の著者パウロは、もともと律法を忠実に守る、熱狂的なファリサイ派のユダヤ教徒でした。パウロは忠実に律法を守る中キリスト教徒を迫害したのです。キリスト者を迫害するパウロを見るときに、パウロ自身が自分の弱さに悩み、苦しんでいた姿を見るのです。他者と比較して、自分の方がまだ律法を守ることができているとして、他者を排除することで自己満足をしていたのではないでしょうか。
2: 弱い者を作り出す社会
自分の弱さを受け入れられないとき、私たちは他者と比較して自分を正しい者としてしまうことがあるのです。弱さをもつ自分を少しでも正しいとするために、さらに弱い立場の者を作り出す。自分が傷つけられる中、さらに弱い立場の人々を傷つけていく。このような考えが、いじめや差別を生み出しているのです。パウロがキリスト者を迫害する行為も、まさに自分の弱さを抱えきれずに、他者を迫害した姿として見ることができるのです。
3: 神の恵みにより義とされる
パウロは自らの弱さを「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(23)と告白します。私たちすべての人間が罪の下に置かれていたのです。しかし、神様はこのような人間をイエス・キリストの十字架という一方的な恵みにより義としてくださいました。私たちすべての人間は、イエス・キリストの十字架という御業によって、どのような者も神様の愛の下に置かれ、尊い存在とされたのです。
4: 弱さの中で生きる
私たちは、神様が愛を注いでくださる中にあって、どのように生きることができるでしょうか。人間はこの世に生きる限り、弱さを持つ者であり、完全に正しく生きることができるようにはならないのです。しかしだからこそ、私たちには神様の助けを求め続けていく必要があるのです。神様はそのような私たちに、御言葉を与えくださる。私たちと共に生きて、祈っていて下さるのです。この神様の恵みを受け取り、神様の御言葉を携えて歩んでいきましょう。(笠井元)