1: 偶像に供えられた肉を食べること
8章で偶像に供えられた肉を食べることについて語られました。コリントの教会で自分たちは知恵を持つと考えていた者は、何をしてもキリストの救いが変わることはないと考え、偶像に供えられた肉を食べることは問題ないと考えていたのです。パウロは「その行為が『弱い者』を躓かせないように」と教えます。(Ⅰコリント8:8-9,12-13)
多くの宗教が混在している日本でも、何をして生きるべきなのか考えさせられます。文化と信仰の境界線は難しい問題です。8章では、隣人への配慮として、偶像に供えられた肉を食べることの問題を語りました。9章ではこのようにも語りました。(Ⅰコリント9:19-23)
2: イスラエルの民から学ぶ 1~11
今日の10章では、偶像に供えられた肉を食べること自体が偶像礼拝になる危険性を語ります。パウロはまず、イスラエルの民が生きてきた歴史から、その危険性を語ります。(Ⅰコリント10:1-5)
ここでパウロはイスラエルの救いの「出エジプト」の出来事と、「キリストによる救い」を繋げて語ります。「雲」とは神様の臨在を意味し、出エジプトでは雲と火の柱によって神様がイスラエルを守り導いたのです。(出エジプト13:21~)「海」は出エジプトにおいて、イスラエルの民を追いかけてきた、エジプトの軍隊に追い詰められたときに、目の前の海が分かれ、道が開かれたのです。(出エジプト14:21~)パウロはこのイスラエルに起こされた神様の救いの出来事を、キリスト者における神様の霊によるバプテスマの予型として見たのでした。出エジプトの時の荒野での神様から与えられた恵み、霊的な食物(マナ)(出エジプト16章)、霊的な飲み物(出エジプト17章、民数記20章)について語り、ここに主の晩餐の予型を見たのです。
そのうえで、イスラエルの民は「大部分が神様の御心に適わず、荒野で滅ぼされた」と教えるのです。6節から、悪をむさぶることのないための戒めの前例として、荒野を歩むイスラエルの民が神様から離れていった具体例が挙げられます。
第一には「偶像礼拝」(7)(出エジプト32:6)、第二には、「みだらな行い」(8)(民数記25:1-9)、第三には「神を試みること」(9)(民数記21:5~)、第四には「不平を言うこと」(10)(民数記16章)が挙げられました。
パウロは、コリントの教会の人々に偶像礼拝や不品行に生きることに対する警告をし、救いを得た者として、どのように生きるかということについて教えているのです。(Ⅰコリント10:23-24,31)
3: 神の救い 逃れの道を備えられている 12~13
パウロは厳しい警告「滅びる可能性」を語りながら、最終的には神の助けがあることを教えます。13節は多くの困難の中にある人々に希望を与えるみ言葉となっています。どれほどの試練があったとしても、神様がその道を耐える道、逃げることが出来る道を備えていて下さると教えるのです。どのような誘惑、困難といった試練においても、救いに立ち返る道が備えられているのです。
パウロはコリントの人々に、このままでは滅びに向かうことになると警告しながらも、神様はそこから立ち返る道を備えてくださっていることを示し、神様に立ち返ることを教えているのです。
4: 自分で判断する 14~15
パウロは【わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。】(15)と言います。この言葉は、自分を知恵者と思っているコリントの人々に対する皮肉とも聞こえます。ただ、最後の決断は、神様と自分との関係によることを教えるのです。他者がどれほど祈っても、最後は本人の決断が必要です。ここに人間のそれぞれの自由と責任を見るのです。私たちも、神様の前にあって、自分がどの道を選び取るかという判断が迫られていることを覚えたいと思います。
5: キリストに繋がる信仰 16~22
パウロは、偶像に供えられた肉を食べることは偶像礼拝であり、偶像礼拝は、悪霊の仲間となることだと教えます。そしてコリントの教会の人々に、悪霊に繋がるのではなく、キリストに繋がることを求めているのです。一つのパンを裂き、分けていただくことによって、共にキリストの体に与ることになるように、偶像に供えられている肉を食べることによって、教会として悪霊に繋がっていくことの危険性を教えているのです。
最後に22節で、【それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。】(22)と教えます。コリントの教会の人々は、自分たちは強い者だとしていました。しかし、どれほど知恵を持っても、どれほど強いと思っていても、悪霊の誘惑に勝つことはできないのです。
悪霊、罪に勝つためにキリストが命をもって私たちを救い出したのです。このキリストに繋がることによって救いを得、歩んでいきたいと思います。信仰は、隣人に大きな影響を与えるのです。だからこそ、私たちは、「隣人」のために判断する日必要があることを覚えたいと思います。(笠井元)